ロマン・ロランと中国文学 相 浦   杲


 ひとりの外国の文学者が、中国ないし中国文学の中にどれほどの位置を占めたのか、または影響をもっていたのかを全面的に計量することはなかなか容易ではないが、ロマン・ロランについては、今まで、たとえば『魯迅案内』(増田捗・松枝茂夫・竹内好編、岩波書店『魯迅選集』13巻のうちの1巻)に、小野忍「外国における魯迅」があって、この論文には、魯迅とロマン・ロランの関係が詳しく論じられている。それはまことに興味ぶかい問題である。同時にその範囲をもう少しひろげてみて、ロマン・ロランという西洋の巨人が中国にどのような影を落していたのか、その交錯の跡をたずねることもまた無意味ではあるまい。
 この作業をすすめるために、中国でのロマン・ロランについての資料をできるだけこまかく収集・整理してみた。
 もちろん個人の力には限りがあって、すべての書物や雑誌に目を通したわけではないから、落ちているものも多いだろう。そう思うけれども、たとえば、『北京大学学報』(1959年、2期)所収の「五四時期のロシア文学およびその他のヨーロッパの国の文学の翻訳と紹介」(馮至など作)などを読んでみると、それほど大筋を離れてはいない、とも思う。
 今、こうして収集した資料を年代順に排列して表にしたものを、一応、「ロマン・ロランに関する資料(中国)年譜」(後掲)と名づけておくことにする。これにはだから、落ちこぼれはあるだろうけれども、大筋を追っていくぐらいの役にはたつだろう。「表」はこれからまたおいおい補充・修正をしていく努力をすることにしたい。
 先日、みすず書房の小尾俊人氏にお目にかかったら、「こんなものがありますよ」と、一冊の本を手わたされた。見ると、羅曼羅蘭書『約翰・克利斯朶夫』lと本の背にある。羅曼羅蘭とはロマン・ロラン、約翰・克利斯朶夫とはジャン・クリストフの音訳漢字である。表紙に「足本」とあるのは完訳本という意味であろう。近くの古本屋で入手された、とのことであったが、この本は3冊からなる『ジャン・クリストフ』の完訳本の第一冊で、香港同文書館影印、とあるほかには、訳者名も出版年月日もない。おそらく中国国内で出版された博雷という人の訳本のリプリント版なのだろうと考えられるが、『ジャン・クリストフ』がこのような形で国外の華僑にまで読まれていることの影響の広さに驚いた。これは「資料年譜」に入れようもないが、そこまで広がりがあることも視野に入れておかねばならないだろう。



 さて、この年譜には、それぞれの資料に1から48までの番号を付してある。その後に年・月・日、ついで事項を排列した。
 この年譜を全体として見わたしてみると、
 1、1925年までは断片的にロマン・ロランにふれた資料が散見するが、
 2、1926年からはかなり体系的に翻訳・紹介がおこなわれたように思われる。
  次に大きな高まりとしては、
 3、ロマン・ロランの逝世に際して示された中国知識人のロランへの熱い追悼の念であり、1945年初めに見られる資料からそのことをうかがい知ることができる。次に、
 4、新中国成立後に外国の文学や思想をどのように受け入れるか、が問題になってくる。たとえば、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』は世界文学の名作だと考えられるが、新しい、社会主義を目ざす国の中で、どのように読まれるべきか、ということが問題意識として出てくる時期である。
 だいたい、この四つの時期があると考えられるが、もとよりそれにこだわることはない。ここでは時期区分は説明と理解の便宜上の問題だからである。そこで一応、このひとつづっの時期を通して、ロマン・ロランと中国文学をめぐる問題を考えてみたい。


 l925年まての時期

 この時期には断片的にしか資料がないように思われる。私が今もっとも早いものとしてロマン・ロランの名を見出しているのは雑誌『新青年』(2巻2号、1916年10月1日発行)におけるものである。しかし、これは、その読者との「通信」欄に、読者からの、Nobel賞とはどういうものか、という質問に答えてそれを説明し、フランスのロマン・ロラン、スウェーデンのハイデンシュタム(X.X. Heidenstam)デンマークのボントピダン(H、Ponloppidan)の三「小説家」がともに1914年に賞を得た、と述べている。ノーベル賞は当時はまだ一般にそれほど知られていなかったのであろう。1914年、というのはまちがいで、ロマン・ロランは実は1915年度のノーベル賞を1916年に受けたのである。ここでは、だから、ロマン・ロランという名前を見出すにすぎない。ただ興味ぶかいのは、中国のいわば近代啓蒙主義時代にとって指導的な位置にたっ雑誌『新青年』にその名が初めてあらわれたことと、この2巻2号の同じ「通信」欄に、当時アメリカに留学していた胡適が、中国新文学の口火を切った口語文学運動1―文学革命―に関する最初の投稿をしていることである。
 このように、私は『新青年』にもっとも早いロマン・ロランの名を見出すのであるが、これと前後する時期にほかにもロランの名を見出しうるかもしれない。
 次に見出すのは、魯迅「写真のいろいろ」(別掲の年譜の番号2、以下、Aと略記する)で、先のものより8年ほど後になる。
(編集室注:表示文字の都合で、21以上は(21)などと略記する)
 魯迅はこの文章で、写真のとり方を通して、中国人の封建的な、おくれた考え方を皮肉っており、それに対立させて、トルストイ、イプセン、ロダン、ニーチェ、ショーペンハウエル、ワイルドなどの写真についてそれぞれ短い印象を述べた後に、
 「ロマン・ロランはあやしげに見え、ゴーリキーはまるで流れ者みたいだ。どの顔にも悲哀と苦闘の跡を見出すことができるだろうが、なんといっても、天女の『すばらしさ』ほど明明白白ではない」
と述べている。ここでは「すばらしさ」と訳したけれども、原文は芝居で舞台の天女に対して「ハオ!」と喝采するときの「ハオ」である。
 この文章は、トルストイ以下の世界的な文学者・芸術家を一見ののしっているように見えながら、実は魯迅一流の皮肉と諷刺で、天女をののしっていたのである。天女、というのは、日本でもよく知られている京劇の名優、梅蘭芳メイランフアンが女装で写っている写真 ―「黛玉葬花」「天女散花」など梅蘭芳の主演する芝居の写真が当時の写真屋の店先によくかかげられていた―をさしている。魯迅は京劇が嫌いで、その女装写真のいやらしさを皮肉ったのであり、だから、トルストイ以下の人たちの写真の悪口を言うように見せかけながら、これら世界の文学者、芸術家の写真に、「悲哀と苦闘の跡を見出すことができる」と述べて、そのすぐれた人間性に共感を示したのである。この文章を通して、魯迅の鋭い諷刺のしかたや、文体のわかりにくさを知ることができるが、ここではそれには深入りしないこととして、ここに魯迅が挙げたトルストイ以下の人たちの名は、当時すでにインテリの間に知れわたっていたのであろうことがわかる。そうでなければ、ここに、たとえば、ロマン・ロランの名を挙げることは無意味である。したがって、これ以前にもロマン・ロランについて何らかの資料があるはずだが、私はまだ見出していない。
 っいで見られるのは、当時、有名な詩人であった徐志摩の「ロマン・ロラン」(B)という文章である。これは、『晨報副刊』という新聞の附録に掲載されたものであり、今は台湾で出版された『徐志摩全集』にも収められている。徐志摩(1895―1931)は米・英に留学し、新しい詩風をうちたてて活躍した、当時知名の詩人で、その詩風は懐疑的、頽廃的側面が強く、保守的傾向をもっていた。今はそれにふれていくことはできないが、北京女子師範大学事件や、それにつづく魯迅と現代評論派との論争などがあって、魯迅とは意見の対立するグループの側に立っていた。魯迅の「花なきバラ」(F)という文章、およびこの一文の収められている『魯迅全集」の注によると、インドのカルカッタ大学教授カリダス・ナッグ(Kalidasu Nag)が、ロマン・ロランの60歳生誕を記念して文章を募集する旨の手紙を徐志摩にあててかいたが、その手紙に、
 「ロマン・ロラン先生ご自身が『新中国』からの自分の思想についての反響をとても開きたがっておられる」
とかいてあった。このような事情のもとにかかれたのが、徐志摩の「ロマン・ロラン」なる一文であったらしい。もっとも先の『徐志摩全集』にはこの間の説明はない。しかし、こういう点から考えてみると、ロマン・ロランはすでに遠くフランスから中国にむかって手をさしのべていたのである。ただその善意と友情の手は直接には魯迅にまでとどかず、逆に魯迅とはむしろ対立関係にあった徐志摩にとどいたのである。
 「ロマン・ロランというこの美しい音楽的な名前はいったい何をあらわしているのか。彼はなぜ国際的な敬仰を受け、彼の誕生日はなぜ国際的に祝賀されるのか…‥」という言葉で始まる徐志摩のこの文章は、ロランとトルストイの偉大をほめたたえ、「偉大な作家」「勇敢なヒューマニズムの戦士」と呼ぶのであるが、この文中に徐志摩は次のようなことをかいている。 「だがもしだれかが、帝国主義打倒などというような、いくつかの流行のスローガンや、分裂と猜疑の現象をもちだして、ロマン・ロラン先生に、これが新しい中国です、などと報告にいこうものなら、先生はいったいどんな感想をおもちになることでしよう。」
 中国近代史の流れをみるとき、徐志摩のこの発言は、善意からにせよ、現実認識については甘さがみられる。
 すこし後のことになるが、魯迅は「花なきバラ」(1926年2月27日)をかいとき、徐志摩の文章のこの部分を引用して、
 「かれだ―ロランをさす―は遠くに住んでいるので、われわれは今すぐおたずねのしようもないが、”辞哲”の目からみれば、ロラン先生のお考えでは、新しい中国は帝国主義を歓迎すべきだ、とでも言うのだろうか」
と鋭く皮内っている。“詩哲”というのはもちろん詩人・徐志摩をからかって引用符号つきの尊敬語で呼んだのである。
 この皮肉はもちろん徐志摩にむけられたものであって、ロマン・ロランにむけられたものではないが、ちょっと表面的に読みすごすと、ロマン・ロランにも鉾先がむいているようにも見える。それは、先にも述べたように、ロマン・ロラン、徐志摩、魯迅のおかれた位置を考えてみる必要がある。つまり、徐志摩は直接、カリダス・ナッグを通じて、ロマン・ロラン生誕60周年記念の文章を求められていたのであり、その立場から、ロランを自分の側にひきつけて、自分の立場を補強するためにロマン・ロランを利用したのである。1925年には、憤光利一が「上海」という作品に、新感覚派の手法でではあるが、詳細に描写している5・30事件が起っており、歴史的には帝国主義反対をひとつの軸とする中国革命の大きな高潮があったのである。「帝国主義打倒」という言葉は荒々しくひびくかもしれないが、それこそ中国近代史の中でいちばん本質的なスローガンだったのであり、徐志摩と魯迅の対立の性質がどのようなものであったのかをよく示している。ここにロマン・ロランを光背としてもつ徐志摩と、ロマン・ロランへの角度からいえば不利な足場にあってもみあう魯迅との論戦の様相が見られるのであり、ロマン・ロランという光背を避けつつ、同時にそこにいる徐志摩に対して鉾先を向けていた魯迅の筆の冴えを見るのである。今からみれば、むしろ、魯迅の苦しい戦いがロランの光によってかえって浮き上がってくるような気がする。
 ついでにすこしこの時の論戦に立ちいっておくと、「年譜」の二つの資料を見ておかなければならない。徐志摩「むだ話のむだ話をさらにつけ加えてそのすきに包囲を解こうと妄想する」(D)と、魯迅「郵はまだ『やめる』わけにはいかぬ」(E)のの2つの文章についてである。 これは引用しても背景がたいへんわかりにくいのだが、あえて説明すると、魯迅と現代評論派との論戦で、味方の旗色がわるくなってきたとき徐志摩が、このような論戦の泥仕合いは学生から見ても格好が悪いから―当時、、魯迅も、現代評論派の陳源、李四光らも大学数員であった―やめるべきだ、と仲に入って調停することによって自分の味方を救おうとしてかいたのが、上記の長ったらしい題名の文章なのである。これに対して、魯迅は「私はまだ『やめる」わけにはいかぬ」をかいて徐志摩の欺瞞性を追及したのである。
 徐志摩は上記の文章にこうかいている。
 「自分のことを柵にあげて、他人のことだけを罵ることなどなに一つないと、私はほんとうに思うのです。私たちの心の奥底を、あなた(魯迅をさす)がほんとうにのぞきこむだけの勇気があれば、ありうべき悪やとがめや罪をなにひとつ犯したことがないと言えるでしょうか。誰だって同じようなものです、ありていに言えば。…略… この意味をひきのばして言えば、私たちはロマン・ロランの“Above The Battle Field”の呼び声を理解できるはずです。幽霊というのはこわいものです。それはあなたの敵のからだに乗りうつるばかりではありません。それはあなたにも見えるでしようが、幽蓋はあなた自身のからだにも乗りうつるのです。それはあなたにはいっも見えないでしょう。この幽蓋をやっつけようとするのなら、あなたは自分のからだについた幽塞をもやっつけなければなりません。それでこそ公平というものです。」
 徐志摩はこのように言ってロマン・ロランの『戦いを超えて』を引用しながら、魯迅をたしなめるような調子で、魯迅の筆鋒を回避していこうとする。これだけを読むと、なにか魯迅だけが攻撃をしかけているようにみえるが、実際は、1926年1月30日の『晨報副刊』は、まるで「攻周専号」と呼ばれるほど魯迅攻撃の文章を満載していたのである(周は魯迅の姓で、攻周とは魯迅攻撃の意、専号とは特集号ということ。「私はまだ『やめる』わけにはいかぬ」およびその『魯迅全集』注参照)。これらに対する反論が魯迅によっておこなわれていたのである。「やめる」ということの意味は、論戦している双方(現代評論派の陳源、李四光と、魯迅)に対して、徐志摩が、「やめろ!」と言ったのに対して、その言葉をひきとって、まだ「やめる」わけにはいかない、と魯迅が応酬したのである。
 魯迅が徐志摩のロマン・ロラン引用に関して述べた言葉は次のようであった。
 「“詩哲”は陳源教授を援用するために、ロマン・ロランの言葉を引用したことがあったようだが、その大意は、各人のからだには幽霊がついている、だが、ひとは他人のからだについている幽霊をやつつけることしか知らない、ということであった。念をいれて読んだわけではないので、はっきりとは言えないが、もしだいたいこういう意味なら、陳源教授のからだにも幽霊がおり、李四光教授ももちろん例外ではない、ということをすっかり認めたことになる。彼らは以前、自分には幽霊はいない、と考えていたのである。もし自分たちのからだにも幽霊がいることをほんとうに認めるのなら、『やめろ』の一件も処理しやすくなるだろう。これ以上、素人芝居をうたず、いばりちらかすことをやめ、君たちの教授という肩書きを忘れ青年を指導する先輩づらをやめ、君たちの“真理”とやらの旗を“おわい車”にでも立て、君たちの紳士の衣装を“臭い便所”にでもなげすてて、仮面をとりはずし、素裸になって本当のことを話すなら、それで十分だ。」
 魯迅はこのように、もともと現代評論派の使った、汚い言葉を逆に投げかえして、敵を完全にやっつけてしまうのである。しかし、この文からもわかるように、当時の政治情勢の中で現代評論派はいわば仮面の紳士たちであったのであり、徐志摩の文章に引用されたロマン・ロランも彼らの仮面として利用されていたにすぎなかった。
 ついでに言えば、ここで徐志摩は“Au Dessus dela Melee”を、英語では“Above the Battle Field”と訳し(あるいはそう訳した英訳本があったのか)、中国語では、先述の「ロマン・ロラン」という文で「在戦場的空中」(戦場の空の中で)と訳しており、まだ定訳のなかった時期ではあるけれども適訳とはいえない。ちなみに現在の中国語定訳は「在混戦之上」(乱戦をこえて)〔(45)による〕である。
 以上、断片的な資料を通じて、ロマン・ロランをめぐる魯迅、徐志摩の立場を論じてみた。魯迅と徐志摩の思想は、どちらの方がロマン・ロランと地平を一つにすることができるだろうか。
 話の筋道のつごうで、はじめに挙げた時期区分のようなものを超えて、すでに私のいわゆる第2の時期に入りこんでしまっていたわけだが、時期区分はもともと説明と認識の便宜上のものであるから、ここではそれを問題にすることはもともとたいした意味はない。そこで、私も混乱を超えて、第2の時期に進みたい。


 1926年から40年代前半まての第2の時期

 時代はくだるが1959年の北京大学学報第2期に、「五四時期のロシア文学およびその他のヨーロッパの国の文学の翻訳と紹介」(47)があるが、これには次のように記されている。
 「この時、フランスの現代の進歩的作家ロマン・ロランとパルビュスもまた中国の文芸界の注目をひいた。この2人が第一次世界大戦中に戦争反対の立場をつらぬいたので、彼らは中国人民の敬仰をうけることとなった。『小説月報』はその作品を掲載し、魯迅が指導していた雑誌『莽原』は1926年に《ロマン・ロラン特集号》を出した。」(これは、1958年8月に北京大学共産党委員会の指導した科学大躍進運動で北京大学西方語言文学系のフランス語専攻学生の一部の人たちが翻訳史グループを組織してかいた「外国文学翻訳史」の「五四期部分」に基づくという。)
 これはだいたい今日(文革期を除く)の目でみた外国文学翻訳史におけるロマン・ロランの位置づけの―つである。
 いま、私の作成した「年譜」によれば、まず第一に、文学雑誌『小説月報』17巻1号(1926年1月10日(C)が注目される。
 雑誌の冒頭から、ロマン・ロラン像(Granie作)、ロマン・ロランの塑像、ロマン・ロランの家、などの写真をかかげ、その後に見開きの2頁〔画像参照〕がつづいている。

〔画像〕


 右側の頁にあるロマン・ロラン自筆の「ジャン・クリストフから彼の中国の兄弟たちへ」には、その下に中国語訳がつけられている。
 ロマン・ロランは前年の1925年12月に「日本の友たちへのメッセージ」をかいているが、中国へのメッセージは実は日付からすれば、1925年1月になっており、1年近くも早かったのである。
 このメッセージがどのように誰の手を通して『小説月報』の編集者の手にわたったのかはわからないが、おそらく中国で『ジャン・クリストフ』の最初の翻訳に手をつけ、当時フランスに居住して、ロマン・ロランをレマン湖のほとりに訪ねたこともある敬隠漁という人を通してであっただろうと想像される。ロマン・ロランのこの手紙には中国語訳にみられる<宣言>という語はないし、原文と中国語訳の間にはややへだたりのある部分もみうけられる。後に、1958年、羅大岡という人がこれを『フランス文学』誌に掲載された原文によって訳出している(45) 『ジャン・クリストフ』とその時代」、による)ので、ここではそれに従って日本語訳をつけておこうと思う。

ジャン・クリストフから彼の中国の兄弟たちへ

 私は何がヨーロッパで、何がアジアなのかを知りません。私はただ世界には二つの種族があることを知っているだけです。一つは向上する魂の種族であり、他方は堕落する魂の種族です。
 一方の人たちは、忍耐づよい、情熱的な、変ることのない、勇敢な力によって、光明―一切の光明、すなわち、科学、美、人間愛、共通の進歩にむかってつき進んでいます。
 他の一方は抑圧の勢力、すなわち、暗黒、無知蒙昧、残虐無道、頑迷固陋の偏見と粗暴なふるまい、です。
 私は前者とともにいます。その人がどこから来ようと、その人は私の友人であり、同盟者であり、兄弟なのです。自由の人類は私の祖国です。すべての偉大な民族はこの祖国の一つの部分です。そして、すべての人の財産は空の太陽なのです。
                 1925年1月  ロマン・ロラン


 この手紙を読むと、私はロマン・ロランが1931年の復活祭にレマン湖畔のヴィルヌーヴでかいた「『ジャン・クリストフ』への序」の一節を思い出す。
 「そして私がこの作をつくっていたときの私の予想をひどく越えている事実は、『ジャン・クリストフ』がもはやどの国においても異邦人でないということである。最もはるかな土地、最も相違している諸民族、中国、日本、インド、両アメリカ、ヨーロッパのすべての国々の人々の中から ―『ジャン・クリストフは私の同族です。彼は私と同族です。彼は私の兄弟です。彼は私です。‥‥‥』と言いながら来る人々を私は見た。」『ジャン・クリストフ』片山敏彦訳、より)

 このようにして、ロマン・ロランの世界的名作『ジャン・クリストフ』は1926年初めに中国語訳をもつこととなった。
 『小説月報』という雑誌は、1921年から、「人生の為の文学」を標榜して上海の商務印書館から発行(『小説月報』そのものはすでに1910年に創刊されていたが、21年から新たな編集方針で再出発した)され、中国文学史の上にも大きな足跡を残した雑誌であり、後には巴金、老舎、丁玲など多くの新人作家を文壇に送り出したし、外国文学の翻訳・紹介にも大きな貢献をした。それに魯迅につぐ大作家と目される茅盾はこの雑誌の初期の編集者であったし、魯迅はこのグループに直接加わらなかったが、その立場を支持していた。同じころ、この雑誌ないしグループに対立していたのは、創造杜と呼ばれるグループで、「芸術の為の文学」を主張して、ロマン主義を標榜していたが、この創造杜グループはロマン・ロランにはあまり関心をもたなかったように思われる。私としては索引なども利用して調査をしてみたが、資料は得られなかった。今後さらに調べてみたい。
 さて、こうして『ジャン・クリストフ』の中国語訳が『小説月報』に掲載された。訳者の敬隠漁という人については十分にはわからないが、1920年代の前半期に短編小説をかいたり、フランスの詩や小説を翻訳したりしていたが、その後、フランスに住んだらしい(『魯迅案内』小野忍氏論文〔204頁〕による)。ただ敬隠漁訳の『ジャン・クリストフ』は、その後、3号にわたって連載されたが、未完に終っている。
 次にみられる資料は、「レマン湖畔」(Cc)という文章だが、これは当時学校を出たてのフランス留学生であった敬隠漁が、おそらくは中国からの最初の訪問者としてロマン・ロランをレマン湖畔に訪れたときの印象記である。ヴィルヌーヴ駅を下車してからの潮や山の美しさを述べ、また、彼がロマン・ロランを訪問したのは、『ジャン・クリストフ』を読んだある中国人の助言に従って、ロマン・ロランが若い時にトルストイに手紙をかいた、あの故事にならって、自分もロランに手紙をかき、それによってロマン・ロランに会うことができたことを記している。敬隠漁の若い魂はロランに会って大きな感動を受けたらしい。彼は中国の西湖のあたりの数枚の古画をロランに贈り、ロランからは『ガンヂー伝』と、彼の新しい作品『愛と死との戯れ』、それに『ジャン・クリストフ』の最後の巻を贈られている。敬隠漁はこの「レマン湖畔」という文章を1925年9月にリヨンでかいている。
 この『小説月報』17巻1号が不十分にせよ、中国におけるロマン・ロランの翻訳・紹介の始まりであり、ロマン・ロランからの手紙を掲載したことも注目にあたいする。
 ついで、『莽原』という雑誌が26年4月に『ロマン・ロラン特集号』を出している(H)。『莽原』は26年1月から半月刊で発行されたのであるが、これは実は魯迅みずから編集していた雑誌であった。
 魯迅は1926年3月に『死地』(G)という文章をかいている。これは中国近代史で、三・一八事件と呼ばれている事件についての文章である。これは重い文章である。三・一八事件というのは、1926年3月に、日本をはじめとする列強が中国内の軍閥を支度して軍事行動を起そうとしたのに対して、北京の天安門前で抗議集会が開かれ、その後これらの人々が段h瑞政府に請願に行ったところ、段h瑞の命令で警備兵が発砲し、かれらを襲撃して、死者47名、負傷者150余名を出した事件である。前の話につづくが、現代評論派の陳源らは評論をかいて、請願に行った大衆や学生は自ら<死地>に入ったのだ、と述べた。これを非難したのが、魯迅の『死地』という文章であり、魯迅はこの文章にこうかいている。
 「今、ちようど私の目の前に、ロマン・ロランの
Le Jeu de l'amour et de la Mort が一冊おいてある。その中に、こう述べている。
 カルノーは、人類が進歩するためなら、すこしばかり汚点があってもよい、万やむをえなければ、すこしは罪悪がおこなわれてもよい、と主張した。しかし、彼らはどうしてもクールヴォアジェを殺したくなかった。なぜなら共和国は彼の屍をその腕に抱きたくはなかったからである。それはあまりに重すぎるから。
 屍の重さを感じることができ、それを抱くことを欲しない民族にとっては、先烈の≪死≫は後人の≪生≫にとって唯一の霊薬である。だが(屍の)重さを感じなくなった民族にとっては、それはおしひしがれてともに亡び失せるものに外ならない。……」
と述べて、青年たちに命を軽んじないよういましめた。
 魯迅のロマン・ロランに対する対し方は、この文章では今までの文章とまるでちがってきているように思われる。ここでは魯迅は今までのように敵の背後の光背として利用されているロマン・ロランを見ているのではなくて、ロマン・ロランの作品から厳粛にひとつの教えを引き出そうとしているのである。
 このような事件を経過して、1926年の4月に魯迅が直接編集していた雑誌『莽原』は7期、8期を合併号として、『ロマン・ロラン特集号』(H))を発行したのである。
 これには「年譜」に見られるように、まずロマン・ロランの写真をかかげ、最初の論文は、張定黄「『戦いを超えて』と『先駆者たち』を読んで」(Ha)である。
 張定黄は、本名を張鳳拳といい、定黄はそのあざなである。日本の東京大学を卒業し後に北京大学教授となったこともある。「難波大助事件」「中国人と日本人」「神戸通信」などの文章をかいているが、創造杜とも関係があり、ロマン・ロラン紹介者としては珍しく『創造季刊』にシェリーの詩や「ボードレール散文詩鈔」などの訳を発表している。後には魯迅も同人(一時、編集もした)であった『語絲』にも関係があった。
(編集室注:定黄の「黄」は正しくは王偏ですが、表示不能につき)
 張定黄についで、魯迅自身が日本語から中沢臨川・生田長江「ロマン・ロランの英雄主義」(Hb)を翻訳している。この文の末尾にある魯迅の注によると、これは『近代思想16溝』の最後の一篇をとり出して中国語訳したものであり、この本は1915年に出版されているので、第一次世界大戦には言及していない、と説明されている。私はこの本を未見である。いずれにしても、魯迅みずからロマン・ロラン関係の論文を翻訳した、ということは魯迅がロマン・ロランにどれほど真剣な関心を寄せていたか、ということの一つのメルクマールになるだろう。がんらい魯迅は世界中で圧迫を受けている弱小民族の文学や東欧文学に注目し、その翻訳・紹介に力を注いだ。先進国のフランス文学について紹介したのはロマン・ロランを除いてあまりなかったことのように思われる。
 『莽原』は、ついでGranieの画いたロマン・ロラン像、さらに銷少候「ロマン・ロラン評伝」(Hc)を載せ、その後に次の「ロマン・ロラン著作表」(Hd)をかかげている。

ロマン・ロラン著作表
A 戯曲
   
1  Les Tragédies de la foi.. 
       2 Le Teatre de la Révolution.
     3 Le Temps viendra.
     4 La Montespan.
     5 Les trois Amoureuses.
     6 Le Triomphe de la Liberté.
     7 Liluli.
     8 Les Vaincus.
     9 Le Jeu de la l'Amour et de la Mort.

B 伝記
   
1 Vie de Beethoven.
     2 Vie de Francois Millet.
     3 Vie de Michel-Ange.
     4 Vie de Tolstoi.
      5 Musiciens d'Aujourd'hui.
     6 Musiciens d'Autrefois.
     7 Händel.

C 小説
   
1 Jean-Christophe:
             (a) Jean-Christophe.
                    L'Aube
                    Le Matin.
                    L'Adolescent.
                    La Révolte.
            (b) Jean-Christophe à Paris.
                    La Foire sur la Place.
                   Antoinette.
                   Dans la Maison.
            (c) La Fin du Voyage.
                    Les Amies.
                    Le Buisson ardent.
                    La nouvelle Journée
      2 Colas Breugnon.
     3 Clérambault.
     4 Pierre et Luce.
     5 L'Ame Enchantée
              (a)  Annette et Silvie.
              (b)  L'Eté.

D 論文
  
1 Au-dessus de la Melée.
      2 Les Précurseurs.
      3 Le Theatre du Peuple.
      4 Les Origines de Théatre du Lyrique moderne.
      5 Voyage musical aux Pay du Passé.

 フランス語のまま著作年表を紹介したのはこの当時まだ翻訳が完備していなかったためであろう。この後に1909年7月付のロマン・ロランの手紙の写真をのせ、つづいて常恵訳「ハウプトマンへの公開状」He)、さらに金満城訳「戦いを超えて」(Hf)および常恵訳「私を誣うる者に答える手紙」(Hg)をのせる。訳者はこれら3篇がそれぞれ論文集『戦いを超えて』の中の1篇である旨、付記している。金満城には他にいくつかの作品があるが、常恵については今のところわからない。 以上が『莽原』の『ロマン・ロラン特集号』の内容である。
 この2カ月後の6月には『小説月報』17巻6期(1926年6月10日)(J)がやはりロマン・ロランについてかなりの紹介・翻訳をおこなっている。はじめに、師範学校エコール・ノルマル時代のロマン・ロラン、『ジャン・クリストフ』をかいたころのロマン・ロラン、ロマン・ロランの母、「トルストイのロマン・ロランにあてた手紙」などの写真がかかげられ、徐蔚南訳の『べ―トーヴェン伝』の一部を巻頭言(Ja)として使っている。このあと馬宗融「ロマン・ロラン略伝』(Jb)、張若谷「音楽方面のロマン・ロラン」(Jc)の2論文が紹介に力をっくしている。馬宗融についてはこの頃、この論文が見られるだけだが、張若谷は他に『語絲』に発表した論文がみられる。
 これら紹介論文の後に、李劼人訳『ピエールとリユース」(Jb)がのせられた。
 李劼人(1891―1962)は早くからフランス文学の作品の翻訳を手がけ、モーパッサン、フローベル、ドーデーなどの翻訳もあるが、作家としてもすぐれ、新中国になってからも作品をかきついだ。ピエールと、ペテロあるいはピーターは、ヨーロッパで言えば同一名の転音なのであろうが、李劫人訳では『ビーターとリユース』(『彼得与露西』)になっている。この訳は、上下に分けて次号(26年7月10日)(K)にも連載された。『小説月報』も『莽原』の場合とおなじく、この後に「ロマン・ロラン著作年表」(Je)を付しているが、こちらは著作の発表順に年代を付して排列されており、より整理された形になっている。著作表の内容はおなじで、ただ「伝記」の項に "Mahatma Gandhi" がっけ加わっている。
 この号の『小説月報』(J)はとくにロマン・ロラン特集号と銘うっているわけではないから、ロラン関係以外の記事も掲載されているが、この雑誌としては二度目のロマン・ロラン紹介に多くのページ数をさいている。
 そしてもし、「年譜」にあるように、敬隠漁が“Europe”誌(1926年9月〜1月)にかいた「中国のルネッサンスとロマン・ロランの影響(L)という文章を、われわれが読むことができるなら、このころの情況がもうすこしわかるのではないか、と思われるが、私は残念ながら未見である。

 さて、ここでもう一度、ロマン・ロランと魯迅の話にもどらねばならない。敬隠漁はフランスに滞在していて、魯迅の名作『阿Q正伝』をフランス語に訳し、1926年の5月号、6月号の"Europe"に連載した。
 このことについて、魯迅自身は、この年の年末にかいた「阿Q正伝の成因(1926年12月3日)(Q)の末尾に次のように記している『阿Q正伝』の訳本については、私は2種類を見ただけだ。フランス語のものは8月号の『ヨーロッパ』に掲載されたが、まだ3分の1だけで、省略のあるものである。英語のものはていねいに翻訳されているが、私には英語はわからないので、なんとも言えない…‥」
 ここでは「8月号の“Europe”」だと魯迅は言っているのだが、「年譜」(I)では“Europe”41期・42期(5月号、6月号)とあり、これは蜷川譲氏が調査されたものにもとづいたのだが、あるいは魯迅の記憶ちがいであったかもしれない。
 さて、以下の話は岩波の『魯迅案内』にも根拠を示した上で紹介されている。ここでもそれを参照の上、もとの資料にあたって紹介してみたい。
 姚辛農「魯迅―その生涯と作品」(英文雑誌『天下』所載、1936年11月。これは『魯迅案内』による。筆者未見)(30)によると、ロマン・ロランが『阿Q正伝』を読んで訳者(敬隠漁)あてに手紙をかき、「この物語の微賤な主人公阿Qの悲劇的な運命に対してほんとうに涙を流した」と言ったらしい。
 魯迅自身の資料について調べてみると、魯迅が1934年3月24日に姚克、つまり、姚辛農にあてた手紙((28))には、
 「敬隠漁君のフランス語は人の話では、りつばなものだそうですが、彼は翻訳に対しては必ずしも真摯ではありません。それは彼の目的がお金もうけで、重訳をすると、まちがいがいっそう多くなるのも当然だからです。……」
とかいていて、魯迅は”Europe”に載った敬隠漁の訳にはやや不満であったらしい。それにこの手紙の文面からわかるもう一つのことは、その翻訳も中国語からの直接の翻訳ではなくて、英語かなにかからの重訳であったかもしれないことである。
 もう少し後のことになるが、『亡友魯迅印象記』(1947年10月。今、ふつうに見られるのは1953年の人民文学出版社本であるが、その出版説明に、「最初1947年10月に上海、峨嵋出版社から出版された旨の記載がある)(37)という本がある。これは魯迅の親友の許寿裳という人がかいたものであるが、これによると(55頁)、
 彼(魯迅)は私にこう言った。「ロマン・ロランは敬隠漁のフランス語訳阿Q正伝を読んで、『この諷刺的な写実小説は世界的なものだ。フランス大革命の時にも阿Qはいた。私は阿Qのあの苦しそうな顔を永久に忘れることができない』と言った。それでロラン氏は私にあてた手紙を一通かき、創造杜に託して私に転送してもらうことにしたんだ。だが、私は受取らなかった。というのは、当時、創造杜は私と論争のまっ最中で、すき勝手な攻撃を加えていたので、その手紙を握りつぶしてしまったのだ」
と記されている。
 ロマン・ロランはこのようにして『阿Q正伝』を読んだのだが、この作品に深い感動を受けて魯迅に直接手紙をかいたのである。ここでロマン・ロランが『阿Q正伝』を「諷刺的な写実小説」であり、フランス革命の時にも「阿Q」のような人物が存在した、というように読んでいるのは、当時の作品評価として、今から見ても正しい、筋の通った読み方であり、評価であると考えられる。しかもロマン・ロランは、阿Qの苦しみ=魯迅の苦しみに深い同情を寄せているのであり、ロマン・ロランが魯迅のすぐれた理解者であったことがわかる。
 そうして、1933年12月19日づけの魯迅の姚克あての手紙こはこうある。
  しかし、ロランの批評の言葉は、永遠に見つからないだろう、と思います。訳者の敬隠漁の話では、それは一通の手紙で、彼はそれを創造杜に送りました。彼はながくフランスにいたので、このグループが私を嫌っていることを知らなかったのです。で、彼らに発表するようたのんだのですが、その時からさっぱり行方がわかりません。このことはもうだいぶ以前のことなので調べようもありません。
 私はもうさがすことはないと心にきめています。
 このようにして、たいへん残念なことに、ロマン・ロランの善意は、このときも魯迅にとどかなかった。
 その当時、というのは、1928年から2年間ほど、創造杜(第3期創造杜)は、革命文学=プロレタリア文学を主張し、魯迅や茅盾らを旧文壇の大御所だとみなして、極左的な立場からむちゃな批判を加え、魯迅らとの間に論戦を展開した。文学史上、「革命文学論戦」とよばれている。手紙の握りつぶし事件はおそらくこの時期におこったのである。ただそれが28年のことだと仮定すると、すこし時間的な偏りがあるように思う。もっとも当時はまだエア・メールではなかっただろう。26年半ばごろまたは夏の終りにロマン・ロランが魯迅あての手紙を出したとすると、26年末か27年初めには創造杜の手に渡っていたであろう。そのころ、広東にいた創造杜の同人たちはだいたい上海に帰っていたであろう。魯迅は27年1月に広東につき、4月12日の、いわゆる清党事件後、10月に上海へ居を移している。こうした両者の複雑な移動もあり、どのような経路で創造杜の誰に手紙がわたったのかは不明であり、魯迅の言うように「さっぱり行方がわからない」のである。もしこの手紙が魯迅の手に渡っていたら、と考えると、まことに残念なことであると思う。
 さて、他方、魯迅の編集していた『莽原』は1926年10月から12月まで、Stefan Zweig の"Romain Rolland" (MNOPRS)を張定黄の訳で連載し、さらに27年末には画室(評論家・憑雪峰のペンネーム。『回憶魯迅』の着がある。新中国成立後も活躍した)訳の「『民衆戯曲』の序論:平民と劇」((21))を載せている。『莽原』はこの号をもって停刊しているが、終始、ロマン・ロランへの関心をもちつづけていたように思われる。

 ところで、1920年代には、ロマン・ロランの作品はどのくらい中国語に翻訳されていたのであろうか。次に紹介するのは『中国現代出版史料甲編』に収められている蒲梢いう人の作成した「漢訳東西洋文学作品編目」、つまり外国の作家の作品の翻訳目録で、そのうちのロマン・ロラン関係のものである。これは1929年3月までのものに限られている。

 貝多文伝(Beethoven)                     楊晦  北新
 貝多分(Beethoven)                      徐蔚南 芸術界
 彼得与羅西(Pierre et Luce)           李劫人 『小説月利17巻6―7号
  自利与羅西(Pierre et Luce)                           葉電風   現代
 愛与死之角逐(Le Jeu de la l'Amour et de la Mort)(劇)                                               夏来帯、徐培仁 創造
 愛与死(Le Jeu de la l'Amour et de la Mort)(劇)       夢茵   泰東
 若望克利司朶夫(Jean-Christophe)(末出)                 敬隠漁      商務
 孟徳斯傍夫人(La Montespan)(劇)(未出)          李泉、辛質 商務

 作品名と訳者名、最下段は出版社名である。訳があることがわかっていて現在印刷中のものは「未出」としている。
 これはよく調査されたリストだが、残念ながら出版年月がかかれていない。『べートヴェン伝」『ピエールとリユース』『愛と死との戯れ』は重複しながら出ていることがわかる。『ジャン・クリストフ』は『小説月報』に敬隠漁による最初の部分の翻訳があるだけで、完訳の単行本はまだ出ていない。これだけ翻訳が出ている、とも言えるし、ロマン・ロランのそれまでの著作すべてに比べれば、これだけしか翻訳されていない、と言えるのかもしれない。もちろんインテリは原書あるいはその他の外国語訳で読んでいただろう。そうして、『愛と死との戯れ』については、1930年1月に、沈端先(夏桁)、鄭伯奇らが組織した上海の新劇グループ「芸術劇社」がその第一回公演として上演したことがわかっている。
 これらのロマン・ロランの作品はどのように当時の読者に迎えられたのであろうか。具体的な情況はわからないが、後に作家・評論家として著名な茅盾「永遠の記念と景仰」((33))によれば、
 「われわれ中国のインテリたちにとってロマン・ロランは見知らぬ名前ではない。彼の大著『ジャン・クリストフ』とトルストイの『戦争と平和』は、ともに今日の進歩的な青年が愛読した本であり、われわれの貧しい青年たちは、この二大名著の翻訳をもつことを誇りとし、またつぎつぎに貸しあって一読することを光栄としている」と述べている。『ジャン・クリストフ』の翻訳が何時完成し、また出版されたのか、実はその本を見ていないのでわからない。たぶん、この文のはじめにかいた、小尾氏からいただいた『ジャン・クリストフ』のもとの本がそれにあたるだろう。つまり、傳雷という人の完訳本である。敬隠漁は翻訳を完成しなかったのか、本にはならなかったらしい。
 さて、茅盾は先の文につづいてこう述べている。
 「それにわれわれはまた忘れることができない。われわれのこの時代のすぐれた思想家・芸術家である魯迅先生の『阿Q正伝』が敬隠漁君によってフランス語に訳されフランスで出たとき、ロマン・ロランがそれを読んで、どれほど感嘆しそして驚喜したか、ということを。また『ジャン・クリストフ』がはじめて広大な中国の読者と顔をあわせたとき、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフから彼の中国の兄弟たちへ』のほんのわずかな短い言葉がわれわれにどれほど大きな励ましとなったかを。その時、われわれはちょうど1927年の大革命の前夜にいた。まさに魯迅先生の言われたように、血みどろの中に空気をかよわせる穴をあけた何千何万の、民主を求め光明を求める青年たちが、ロマン・ロランのわれわれに対する呼びかけを読んだのである。『私はただ世界には二つの種族があることを知っているだけです。一つは向上する魂の種族であり、他方は堕落する魂の種族です。一方の人たちは、忍耐づよい、情熱的な、変ることのない、勇敢な力によって、光明―一切の光明、すなわち、科学、美、人間愛、共通の進歩にむかってつき進んでいます。他の一方は抑圧の勢力、すなわち、暗黒、無知、蒙昧、残虐無道、頑迷固陋の偏見と粗暴なふるまい、です。私は前者とともにいます。その人がどこから来ようと、その人は私の友人であり、同盟者であり、兄弟なのです。』その時われわれは、民主を求め光明を求める戦いの中で、われわれは孤立していないことを知った。われわれは強い確信をもったのである。
 われわれは今でも覚えている。『五四』初期に、思想界にまだ中心がなかったとき、資本主義文化を批判するために教えを求め、『ネオロマン主義』の内容を探求したことから、若干の文化工作者の間にロマン・ロランを研究しようというブームをまきおこした。新劇運動の初期にロマン・・ロランの『民衆劇』の理想が提起され討論された。田漢先生はかつて熱心にこの理論を紹介した。」
 すこし長い引用になったが、あえて訳出した。いろいろな点でロマン・ロランが中国の知識人にどのような影響と力を与えていたかを知ることができるからである。それにもう一つ注目すべき点は、すでに紹介した『莽原』所載の『民衆戯曲』が、中国新劇運動の初期に劇作家・田漢によっても熱心に紹介されていた、という事実である。これからこの面についても調べてみなければならないだろう。
 茅盾はさらにこの文章の別の箇所でこうも述べている。「そうして、われわれがロマン・ロランに対して熱心なのにはほかに特別な理由がある。すなわち、彼が最初にわれわれの注意をひいたのは、彼が前の(第一次)世界大戦期に発表した『精神の独立宣言』(訳注:1916年6月の『精神の独立宣言』をさしており、ロマン・ロランは知識人・作家千余人の署名とともに『ユマニテ』紙こ発表した)であり、また、彼が前の世界大戦期にかいた反戦論文集『戦いを超えて』があるからである。」
 以上の茅盾の文章はロマン・ロランの死去を悼む文章としてかかれているのだが、ロマン・ロランが中国でどのように受けとめられているかを明らかにしている、と考えられるので煩をいとわず紹介した。茅盾の「永遠の記念と景仰」については、また後でもふれることにしたい。
 ほかに小さな資料としては、1927年の『駱駝』(注:これは『語絲』の後をつぐものであった)という雑誌(22)に、やはり文学者であった、魯迅の実弟の周作人が『ミレー』の翻訳を掲載しているはずだが、私は未見。
 ほかに、やはり現在の著名な作家である巴金が、その代表作で、当時のベストセラーであった『激流』(これは長編3部作で、『家』『春』『秋』からなりたっている)の「総序」(24)〔長編『家』はもともと『激流』という題名でかかれ、後に他の2長編を合わせて『激流」という総題名にした。「総序」はしかし『家』が完成したときにかかれたのである〕に次のようなことをかいている。
 「数年前のこと、私は涙を流してトルストイの『アンナ・カレーニナ』を読み、本の扉に『生きること自体ひとつの悲劇である』という言葉をかきつけた。
 事実はけっしてそうではない。生きることはけっして悲劇などではないのだ。それは『戦い』である。われわれは生きて何をするのか。言いかえれば、われわれはなぜこの命を必要とするのか。ロマン・ロランの答えは、『それにうちかつためにだ』である。」
 これは、『愛と死との戯れ」の中で、ソフィが、「いったいなんのために、なんのために、人生が私たちに与えられたのでしよう」とたずねたとき、ジュロオムが「それにうちかつためにだ」と答えた、のにもとづいている。
 巴金はアナーキズムの影響を受けた人であり、パリに留学し、パリで作品をかきはじめた。フランス語はできたはずだから、フランス語でロマン・ロランの著作を読んでいたかもしれない。ここで巴金がトルストイよりもロマン・ロランの言葉に賛成しているのも、人生論的にはまことに興味ぶかい。
 ほかに1964年の黄俊東「英雄主義者ロマン・ロラン」(48)では、
 「1931年、わが国で九・一八事変(満州事変わこと)がおこると、彼(=ロマン・ロラン)はまたアインシュタインなどと共同で声明を発表し、日本帝国主義の侵略行為を非難し、われわれ(=中国)のために正義を主張してくれた」と述べていて、中国人のロマン・ロランへの感謝の気持を表明している。
 また、徐懋庸という若い評論家がいて、魯迅に『トルストイ伝』を贈り、手紙をかいて、魯迅にそれと関係して、日本人の名前についていくつかの質問をしている。魯迅は堺利彦、徳富健次郎、加藤直士、城戒(Jokai)などの人名について、ていねいに答えている。私の「年譜」にはこの資料は脱落しているので、ここに挙げておくと、それは、魯迅から徐懋庸あての書簡で、1933年11月15日、11月17日、11月19日の目付けの3通の手紙である(丸山昇「徐懋庸と魯迅」―岩波書店『文学』76年4月号一参照)。
 徐懋庸の魯迅あての手紙は見られないので魯迅の手紙が見られるだけだが、この『トルストイ伝』は原文はフランス語らしいから、おそらくロマン・ロランのものであろう、と考えられる。推測すると、たぶん徐懋庸はこれを翻訳しようとして、はじめての手紙を魯迅に出して教えを乞おうとしたらしい。しかし、その後、この『トルストイ伝』訳が本になった形跡はない。魯迅の有名な論文、『徐懋庸に答え、あわせて抗日統一戦線について』(1936年)によってみれば、徐懋庸は魯迅の激しい怒りを買って、歴史の上にも芳しからぬ悪名を留めることとなったが、もともとは魯迅を尊敬し、ロマン・ロランの作品の翻訳をしようとしてその教えを乞うたことがあるということは、一つの文壇秘話になるのかもしれない。
 30年代については断片的資料しか見出していないが、それは私が見出せなかったばかりでなく、後半の日中戦争の影響もあったであろう。
 1935年の魯迅「孔?境編『当代文人尺牘鈔』」(29)は手紙の模範文を編集した本に魯迅が序文をかいたもので、その中に、ロマン・ロランの日記(『戦時日記』をさす)を死後10年たってから開くようロランが求めた、という話を引きあいに出して、日記や書簡のかき方を論じたもので、ロマン・ロランや魯迅の問題としては、これといった意味はなさそうである。
 これよりも、左翼作家連盟に所属して、魯迅にも信頼されていた青年作家で柔石という人がある。この人は31年1月に国民党に逮捕され銃殺された人で、代表作に長編小説『二月』などがある。彼の死について、魯迅は後に「忘却のための記念」をかいて、深い哀悼の気持をあらわしている。
 さて、この柔石のかいた「奴隷となった母親」という作品(23)がある。
 貧乏なために自分の妻を地主の家に質入れしなければならなくなった男、地主の為に子供を産むことを契約させられたこの男の妻、この夫婦の子供、地主の家族、その人間関係についての悲惨な中国農村の物語である。
 簫三の「ロマン・ロランを哀悼す」(32)によると、 「彼(=ロマン・ロラン)は『国際文学』フランス語版で柔石のかいた『奴隷となった母親』を読んだ後、この雑誌の編集部に手紙を出して、『この物語は私を深く感動させた』とかいた。ロマン・ロランは西方でもまれに見るほど中国の新文芸に関心をもつ人だった」
と述べている。
 ここでもう一つ時期の確定できぬ資料をつけ加えておこう。これは『魯迅案内』に佐藤春夫がかいた「魯迅の『故郷」や『孤独者』を訳したころ」という文章がある。その中でロマン・ロランが魯迅の「故郷」という作品を喜んだ、と述べ、ただそうかいた根拠がはっきりしない旨を説明している。

 魯迅は1936年に世を去り、ロマン・ロランも1944年になくなった。
 魯迅とロマン・ロランについて考えるとき、その生涯でこの2人の巨人は互いに強い関心をもち、理解しあっていたように思えるが、しかし今まで説明したような情況からみるとき、不幸なことにいつも近づきながら行きちがっていたように見える。魯迅は1932年冬に北京に行ったが、陸万美という人の「魯迅先生の『北平五講」前後を追記す」(『億魯迅』―人民文学出版社、1956年―所収)によると、それはソビエトのゴーリキーから招待を受けたからであった。ゴーリキーは魯迅がモスクワへ行って、開会を準備していたソ連作家代表大会に参加するよう望んだのであった。それに、魯迅をソ連にやや長く滞在させて病気の療養をし、また創作をしてもらおう、と考えたらしい。そしてこの作家代表大会には、ロマン・ロラン、バルビュス、バーナード・ショーなどが招かれていた。魯迅のソ連行きの計画は中国共産党の援助で進められたのだが、国民党の監視がきびしく果さなかったらしい。もしこれが実現していれば、魯迅はロマン・ロランに会見して親しく話し合うことができたはずだった。
 そういう観点から考えると、先にも述べたように、両者は互いに引きあいながら、不幸な行違いの運命をくりかえしたように思える。魯迅はいつも中国人に密着してものを考える人であった。たとえば、1925年にスエーデンからノーベル賞の話があったとき、魯迅はそれを断っている。その理由は、中国にはノーべル賞に値する人物はいない。もし私が黄色人種だからといって特別優待され、ゆるやかな基準で入選すれば、逆に中国人の虚栄心を満足させ、ほんとうによその国と競いあえると思いあがるようなことになるかもしれない。それではほんとうにまずいことだ、と考えたからであった。このように魯迅は中国や中国人という個別に密着して徹底的に考えぬいた人であった。しかし、魯迅は個別に密着することを通して普遍に達していたように思われる。
 一方、ロマン・ロランはフランス人であったけれども、フランスやドイツといった国境を越えて東洋にまで手をさしのべ、人類の普遍を考えていた。
 この両者は思考の道すじはちがっていたけれども、ともに人類の普遍に達していたのではないだろうか。そうしてこの両者はまた、ともに、単に作家、文学者といった概念を越えて、より大きな存在として仰がれた点でも共通であったように思う。



 ロマン・ロランの逝世に際して示された中国知識人の追悼

 さて、1944年にロマン・ロランが世を去ったとき、中国の知識人の間には、ロマン・ロランに対する追悼の気持が一気にほとばしり出たように思われる。
 たとえば、フランスへ留学したこともある詩人・乂青は「ロマン・ロランを悼む」(31)という4行14節の詩をかいている。今、その一部を紹介してみると、

        ロマン・ロランを悼む

アルプス山脈のふもと
スイスの小さな湖のほとり
雑木林の入りくんだヴィルヌーヴの村に
フランスから亡命したひとりの老人が住んでいた

山はヨーロッパでいちばん高い山
湖はヨーロッパでいちばん美しい湖
老人はヨーロッパでいちばんすばらしい老人
まっすぐで、厳粛、勇敢で聡明だった

古代の哲人のひとりのように
あなたは昼も夜も人類のために真理をまさぐり求めた
おちくぼんだ両の目は情熱にかがやき
ふかくふかく生けるものの痛苦をみつめていた

…… 中略 …・・・

あなたは祖国の受難のとき、もっとも祖国を愛し
息子が母親をまもるようにフランスをまもり
フランスが辱めをうけたとき、自分も辱めを受け
そうして祖国が解放されたとき、あなたも解放された

・…‥ 中略 ……

いま、あなたは命の旅路を終え
あなたの祖国はあるべき尊厳をとりもどした
あなたの敵はもっとも厳しい懲罰を受けた
見よ、ベルリンはもう赤軍の砲下のもとにふるえている 

                   1945年1月27日


 詩のよしあしは別として、詩人のロマン・ロランへの敬慕の情がよくあらわれている。それから5日後に、茅盾が「永遠の記念と景仰」(33)を重慶でかいている。それは終戦半年前のことである。その一部はすでに紹介した。
 それとは別な要点をもう少し記しておこう。
 茅盾は第一次大戦後のロマン・ロランの≪模索と彷徨≫を、この終戦半年前の中国の知識人の心情にひきくらべ、そのことによってロマン・ロランから勇気づけられ、確信を与えられたのである。ロマン・ロランへの茅盾の記念と景仰の気持もそこから生まれるのである。ついで茅盾はロランの思想の発展過程を分析し、『ジャン・クリストフ』をかいた時期と『魅せられたる魂』をかいた時期とに分けて説明している。
「だが(『魅せられたる魂』をかいた10年は)『ジャン・クリストフ』を創作した10年とどう違うかといえば、この後の10年はまさにロマン・ロランが自ら≪15年の苦闘≫と称した重要な段階なのである。もし前の10年をロマン・ロランの前期思想の形成段階であり、『ジャン・クリストフ』がその総括なのだ、と言いうるとすれば、後の10年はロマン・ロランの後期の思想の発展の段階なのであり、『魅せられたる魂』の最後の3巻は彼が≪模索≫し、そして大道に合流した宣言なのだ、と言うことができる。」
 そうして茅盾の文章はこの問題について、さらに次のように述べるのである。
 「こうして、われわれは長編小説『魅せられたる魂』の中に、ロマン・ロランの初期の思想からの継続を見出すのであり、また、≪模索と彷徨≫を見出すのであり、最後にさらに自己批判としての≪過去への訣別≫と、大またな≪誕生≫への前進を見出すのである。
 ひとりの個人主義者・平和主義者がどのようにしてひとりの社会主義者に変り、ひとりの資産階級の人道主義者がどのようにしてひとりの社会主義の人道主義者に変ったのか、ロマン・ロランはまるまる70年の長い道のりを歩んだが、このたゆみなき真理追求の精神および自己批判の精神だけをとってみても、われわれが心から景仰するに十分値いするのである。」
 茅盾はこう述べて、≪模索と彷徨≫の中にある知識人にむかって、『ジャン・クリストフ』をわれわれは読み終った、これからは『魅せられたる魂』を読むべき時だ、と主張するのである。
 さて、ここで後の問題の伏線として少しふれておくと、茅盾の「永遠の記念と景仰」が、新中国になってから出版された『茅盾文集』に収められたとき、茅盾はこの文章の末尾に「附記」をかいている。それはこの文章がかかれてから13年後の1958年11月17日に北京で記されている。
 それによると、茅盾は、上述のようなことを言ってさえ、当時は、ロマン・ロランを借りて政治宣伝をやった、という罵りの手紙を受けとった。しかし現在のように社会主義建設をしている時代になっても、なお、個人主義の奮闘を第一とするジャン・クリストフに陶酔している青年が少くない。それは時代錯誤だ。しかしまた一方で、ロマン・ロランは読むに値いしない反動文人だと考える青年たちがいるのも、よくない副作用だ。私はなお口マン・ロランの前期、後期の作品を全面的に分析する必要があると考える、という意味のことを記している。
 社会主義制度を目ざす中国で、『ジャン・クリストフ』をどう評価し、どう読めばよいか、という問題があることを、この話は示しているが、それはまた次章で述べたいと思う。
 この茅盾の文章がかかれた2日後に、簫三の「ロマン・ロランを哀悼す」(32)がかかれている。この文章もすでに一部を引用した。
 この文章は、1936年1月29日の、ロマン・ロラン生誕70年を祝う、モスクワ音楽院大ホールでの数千人の祝賀大会の様子の思い出からかき出されている。
 第二次世界大戦でフランスがナチの占解から解放されたという報せの中で、簫三は、ロマン・ロランの身の安否を気づかいながら陜甘寧辺区(解放区)で参議会や労働英雄と模範工作者の会議に出席していた。会議の後で、深夜、いつもなにかの本を読むのだが、ちょうどロランの『トルストイ伝』を読んでいた。そんなある日、ロマン・ロランの死の報せをきいたのだった。
「巻を掩うて悽惻、衷心より無限の沈痛を感ず」
と彼はかきつけている。
 この文章ではまた、ロマン・ロランのゴーリキーやオストロフスキーに対する深い友情と理解、魯迅を始めとする中国人民への理解と友情について述べ、九・―八事件(満州事変)に対するロマン・ロランの「早く援助を!兇悪犯をとらえよ」という抗議声明(26)にふれている。そのほか、ロマン・ロランがジッドにくらべてどれほど偉大であったか、と頌えている。
 このようにして、ロマン・ロランの死を悼む中国文化人のあつい敬慕の気持がここに見られるのである。1945年のいつのことだか、日付を確定できないが、茅盾は「近年来紹介された外国文学」(これはもともと『現代翻訳選』の序文としてかかれた。『中国現代出版史料丁編』下453頁による)に、外国文学作品の翻訳を紹介した中で、ロマン・ロランの作品として次の3点を挙げている。
 (1) 約翰ジャン克利司朶夫クリストフ(傳雷訳、商務上海版、今巳絶版)
 (2) 歌徳ゲーテ斐多分ベートーベン(簗宗岱訳)
 (3) 悲多分伝べートーベン(陳占元訳)
 これでみると、『ジャン・クリストフ』は上海の大出版杜、商務印書館で出ているわけだが、今は絶版になっている、と茅盾はかいている。この傳雷の訳した本はいつ出版されたのか、またいつ、なぜ絶版になったのかわからないが、恐らくは日中戦争の戦禍によってであろう、と思われる。訳者の傳雷という人もどういう人か今のところ十分にわかっているわけではない。
 最近、香港の雑誌を見ていたら、博聡という音楽家の記事が出ていた。話はすこし余談になるが、実は私はこの博聡という人を香港のレストランで見かけたことがある。私は香港大学へ交換教授として行っており、ある一日、友人の黄俊東氏と夕食をとっていた。黄俊東氏が、あれが有名な音楽家の博聡だ、と、むこうのテーブルで食事をしている博聡を指さした。彼は世界的に有名なピアニストで、もと上海音楽団に所属していたが、後、国を出てロンドンに住み、ときどき香港にもやってくるとの話であったが、私はその時、あまり気にもとめずに聞き流していた。その博聡のインタヴューの記事が出ていたので目を通してみると、彼の父親の名は傳雷というのであることがわかった。だが、この音楽家の父が傳雷だとしても、『ジャン・クリストフ』を訳した博雷と同一人かどうかがわからない。帰国してから黄俊東氏の著書『現代中国作家剪影』をみていたら、「傳雷の翻訳作品」という一文があって、そこに黄氏が述べるところでは、最近、新聞で傳雷がなくなったことを知った。彼の息子の博聡がロンドンで新聞記者にこのことを語っているので、博雷の死去の報せは確かなのだろう、と言うのである。たぶん中国の国内でなくなったのであろう。この黄俊東氏の文章によって、博聡はたしかに『ジャン・クリストフ』を訳した傳雷の息子であることがわかった。
 黄俊東氏は傳雷を非常に尊敬していて、追悼の文章をかこう、かこうと思いながらかけなかった、と述べている。多くの読者が傳雷の翻訳の厳粛な態度を尊敬していたらしい。彼の訳したロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』および『三大英雄伝』は、
 「ほとんどどこの家にもある、よく知られた読物であり、誰でも彼のことを口に出すと、ついでにこれらの翻訳の名をもちだしたものだ」と黄氏はかきつけている。傳雷訳の『ジャン・クリストフ』はそれはどにも中国の知識層に読まれていたらしい。傳雷は、ロマン・ロランのほかに、バルザック、ヴオルテール、モロア、ルソー、テーヌ、デュアメルなどの作品、著作を翻訳しており、しかも彼は自分の気に入った作品しか翻訳しなかった、という。とすれば彼もロマン・ロランに傾倒するところがあった人にちがいない。晩年は志を得ることなく亡くなった、というが、黄俊東氏のこの文章がいつかかれたのか、日付がないので没年がはっきりしない。そのうちに折りがあれば黄俊東氏にたしかめておきたい。
 このほか、1945年には、羅大岡「『ジャン・クリストフ』とその時代」(45)によれば、文芸評論家の胡風(1955年に反党、反革命として批判され失脚)編の『ロマン・ロラン』(35)という本が上海で出版されているらしいが、未見。
 こうして、1945年には、ロマン・ロランの死去を悼んで中国の多くの知識人が敬慕の念を表した。



 新中国が成立してから

 中華人民共和国が成立(1949年)してからしばらくして、ソビエト文学への接近がはかられ、文学の体制も社会主義化にむかい、ソビエトにならって中国作家協会という組織もできてくる。
 1954年の『文芸学習』という雑誌に「文芸工作者が政治理論と古典文学を学習するための参考書目」(38)が掲載された。
 わが国のように資本主義制度をとる国と、中国のように社会主義制度をとる国とでは、物の考え方にもおのずから差異がでてくる。文学・芸術の古典的作品(中国、外国とも)一文化遺産をどう継承するかということは大きな問題であり、毛沢東『文芸講話』(1942年)にもその原則が述べられている。ここでは中国でロマン・ロランがどう評価され、受けとめられたのか、を述べておきたい。
 『文芸学習」所載の「参考書日」リストには、他のさまざまな中国および外国の作品の中で、ロマン・ロランについては、『ジャン・クリストフ』が挙げられている。羅大岡論文(45)にも述べられているように、中国では『魅せられたる魂』の翻訳はまだ出ていないのである。
 そうして翌1955年1月にはゴーリキー「ロマン・ロランについて」(39)が、外国文学の翻訳・紹介誌『訳文』に掲載されている。同じ号に、ロシア文学者・戈宝権の訳でロマン・ロラン『私は革命への道を歩む』(39a)が載っている。『訳文」を私自身もっているのだが、どうしてだかこの1月号だけが欠けていて、今見られない。また、文学・学術界の綜合理諭雑誌『文芸報』(1955年2月15日)には、ニュース欄に『ロマン・ロランの戦時日記』が公開されること(40)が伝えられている。
 こうして新しい秩序を形成しつつあった中国の文化界でもロマン・ロランは尊重される位置におかれていた。
 翌56年は、魯迅が亡くなってから20年目にあたった。この「魯迅逝世20周年記念大会」で茅盾は講演(41)をしているが、その講演の中で彼は次のように述べている。
 「私個人はこんな感想をもっています。もし魯迅とロマン・ロランを比較するとすれば、かなり似たところがあります。ロマン・ロランが70歳のとき、ソ連人民が彼を祝ってくれたのにこたえて、こんなことを言っています。『みなさんが私の70歳を祝ってくれたことに感謝します。私の70歳は、パリからモスクワへの旅路の終点のような気がします。私はたどりついたのです。この旅路はけっして平坦なものではありませんでしたが、すばらしい終りをつげました』と、こんなふうに言いました。ロマン・ロランは『どこから、どんな時代の深みからやってきたのか』を説明して、彼の少年時代と青年時代はずっと悲観主義の重圧のもとにすごしてきた、とかつて沈痛に述べたことがあります。同じように、魯迅もまた『寂寞と空虚』の重圧を経験しました。そして魯迅の旅路は、ロマン・ロランのそれよりもっと苦しいものであったように思われます。なぜなら、魯迅は3千年の封建の国の『因襲と重荷」を背負って、暗黒の水門を肩でささえていたばかりでなく、彼はさらに、この百年来の半植民地の社会が形成した『買辨非文化』(訳注:植民地文化のこと)と戦わねばならなかったからです。(「魯迅―革命民主主義から共産主義へ」)(41)
茅盾はあききらかに魯迅とロマン・ロランとがその偉大さの性質において似ていると考えていたのであり、この考えはその後のロマン・ロラン評価にもひきつがれたところがある。
 そして、中国の文化人、知識人の魯迅に対する尊敬の深さからいえば、魯迅とロマン・ロランをならべて比較したということは、外国人としてロマン・ロランがどれほど重く受けとめられていたか、ということを示している。
 おなじ1956年10月には、イ・アニシーモフ『ロマン・ロラン』(42)が侯華甫の訳で出版されている。さらに翌57年1月には、先にふれた傳雷訳『ジャン・クリストフ』が再出版されている。こうしてロマン・ロランの評価が社会主義中国の文学の中に再組織され、位置づけられていった。
 57年12月22日の馮至「ヨーロッパ資産階級文学における人道主義と個人主義を略諭す」(44)という論文は『北京大学学報』に掲載されたもので、これはロマン・ロランを含め、ヨーロッパ文学全体について評価と位置づけをして、これらの文学を中国でどのように受けとるべきかを論じているが、この頃、いちばんまとまった中国でのロマン・ロラン研究の論文としては、羅大岡「『ジャン・クリストフ』とその時代」(45)がある。馮至氏は、青年時代に「中国の生んだ最もすぐれた抒情詩人」と魯迅がほめた詩人であり、この当時は北京大学教授としてドイツ文学を講じていた。羅大岡氏は中国科学院文学研究所にポストをもつフランス文学者であった。私はこの人たちに今から13年前に北京で会ったことがある。馮至氏が私に自著の『詩と遺産』(46)をくださったのもなっかしい思い出である。
 羅大岡「『ジャン・クリストフ』とその時代」は論文の冒頭にこう述べている。
 「ロマン・ロランの長編小説『ジャン・クリストフ』は今世紀初期の世界文学におけるもっとも重要な収穫の一つである」と。
 また別の箇所では、
 「『ジャン・クリストフ』は中国語の翻訳ができてから、わが国でずっと多数の読者を擁してきた。最近でも、いくつかの大学の図書館からの報告では、学生たちの閲覧のもっとも頻度の高い西洋文学作品の中で、『ジャン・クリストフ』は終始高い記録をもっている」とも述べている。
 そこで羅大岡は『ジャン・クリストフ』のモチーフとなっている思想が何であるかを作品に即して分析するのである。
 日本で『ジャン・クリストフ』をどう読むか、はもちろんひとつの問題であり、それは日本人のきめるべき問題であるが、今、羅大岡論文の考え方を一応紹介して、中国での読まれ方について述べておくことにしよう。
 羅大岡はこう考えている。
 「ロマン・ロランは『パリからモスクワへ』の長い苦しい道を歩いた。『ジャン・クリストフ』はこの道の上の一つの重要な里程標である。それはちょうど『魅せられたる魂』が別な一つの重要な里程標であったのと同じである。もし『ジャン・クリストフ』をロマン・ロランの全作品から切り離して読むならば、それは断章取義の方法になるだろう。もし『ジャン・クリストフ』の思想と、作者が晩年に革命を肯定した思想とを結び合わせて読まなければ、『ジャン・クリストフ』、の価値を認識することはできない。」
 これが羅大岡の考えであり、それは前に紹介した茅盾の考えをほぼ踏襲しているように見える。
 彼は作品分析の結果を次のようにまとめている。
 (1)『ジャン・クリストフ』の思想と感情は錯綜複雑したものであり、しかも矛盾にみちている。
 (2)これらの複雑で矛盾した思想は、まさに当時のフランスの社会生活と思想意識のさまざまな矛盾を反映している。
 (3)『ジャン・クリストフ』の思想は主として資産階級思想意識の範疇に属するものであり、当時においてもっとも進歩的なものではなかった。そうではあっても、それは当時のヨーロッパの多くのインテリにとって言えば、やはり積極的な作用をはたしたのであり、彼らをして現状に不満を感じせしめ、暗黒勢力に対して屈服せず、彼らに生命に対する健康な楽観的態度をもたせ、人類の前途に確信をもたせた。
 (4)作者は一度ならず、『ジャン・クリストフ』は単に彼の過去のある時期の思想・感情を代表するにすぎない、と言明している。そして事実上、彼の晩年の進歩的態度は非常に明るいもので、すでに『ジャン・クリストフ』の思想情況を大幅に超えている。
 (5)漠然とこの小説を否定したり、識別なしに全面的にクリストフの思想を受け入れたりすることはいずれも正しくない。われわれは批判的に受け入れなければならない。
と結論している。
 日本の読者はこの結論をどう受けとめるだろうか。いろいろな意見や感想がでるにちがいない。
 そこである若い読者が筆者(羅大岡)に質問した。「それじや、あなたの意見では、『ジャン・クリストフ』は読むに値するというのですか。読めばどんなよいことがあるのですか」と。
 「もちろん読むに値します。わが友よ、正確な目で読みさえすれば、害がないばかりか、一定の啓発と励ましを得ることができるでしよう。ほら、『ジャン・クリストフ』の作者が君たちにむかって呼びかけているではないか」と述べ、『ジャン・クリストフ』の巻10初版の序を引用する、
 「君たち今日に生きる人たちよ、君たち青年諸君よ、今、君たちの出番がまわってきた。私たちのからだを踏みこえて進みたまえ。君たちがより偉大で、より幸福であることを祈るばかりだ。」(中国訳より重訳)〔『ジャン・クリストフ』(片山敏彦訳)の「ジャン・クリストフへの告別」参照〕
 最後に羅大岡は、
 「あの方(ロマン・ロランを指す)の心はわれわれにどれほど近く、親しいものであっただろうか。これはけっして誇張ではない。信じないのなら、どうか彼が、1925年にわれわれにあてた手紙をお読みなさい」と言って、「ジャン・クリストフから彼の中国の兄弟たちへ」を紹介することで、この論文をしめくくっている。
 58年の馮至「『ジャン・クリストフ』に対するいくつかの意見」(46)では、『読書』という雑誌が『ジャン・クリストフ』討論会を開き、たくさんの読者がこれに参加したことを伝えている。この論文でも、『ジャン・クリストフ』の分析をすすめているが、だいたい羅大岡論文と同じ論旨である。ここでも、ロマン・ロランの歩いた道は魯迅も歩いた道であったことを述べている。
 『ジャン・クリストフ』をどう読むべきかという議論を、14年前に北京を訪れたとき、中国科学院の文学研究所長であった、詩人・評論家の何其芳氏からも聞いたことがある。
 社会主義を目ざす中国でも、ロマン・ロランは尊敬を受けており、多数の読者をもつ世界文学の古典としてあつかわれているのである。
 昨年、香港に滞在したとき、黄俊東氏にはなんどか会ったが、ロマン・ロランについて話しあったことはなかった。帰国してから、彼の著書『書話集』(48)を読んでいたら、ロマン・ロラン逝去20周年を記念して文章をかいていた。彼もまたロマン・ロランの愛読者であったことを、私は後から知ったのである。
 彼の文章もまた、ロマン・ロランに対する敬慕と尊敬にみちたものであった。この文章の中で、彼は自分の知見にもとづいてロマン・ロランについての翻訳や論文を紹介してくれているので、1960年段階の情況を知るために、ここに列挙しておくことにしたい。

(1)ジャン・クリストフ                        傳雷訳
(2)3大英雄伝(べ―トーヴェン伝、ミケランジェロ伝、トルストイ伝)   傳雷訳
(3)その他のいくつかの戯曲                李健吾、沈起予など訳
(4)ピエールとリユース                       葉霊鳳訳
(5)その他は新聞・雑誌での断片的な訳

ロマン・ロランの伝記については

(1)シュテフアン・ツヴァイク『ロマン・ロラン 人と著作』楊人梗訳(たぶん 商務版)
(2)モロア『ロマン・ロラン伝』(出版年月を忘れた)
(3)ウイルソン『ロマン・ロラン伝』(1939年)。沈錬之がその多くの章を翻訳し、一冊にまとめて、この書名をつけた。これは文化生活出版社から、民国 36年(1947年)初版で出た。比較的入手しやすい伝記。
(4)『ロマン・ロラン評伝』民国34年(1945年)上海永祥印書館。薄い本、内容は簡明にまとめられ、高校生むきによいが、入手がむつかしい。

 先に1929年3月までの書目を紹介したが、それにくらべてそれほど出入りはない。ただ伝記類についての資料が珍しい。これでみても、『魅せられたる魂』の翻訳が中国ではまだ完成されていないのが残念である。
 65年以降については、文化大革命などもあって、資料を見出すことができない。
 資料がなお十分でないし、魯魚の誤りも多いと思うけれども、不十分ながら、「ロマン・ロランと中国文学」というテーマに即して、今の段階でまとめてみた。おそらくこのテーマについては、中国の研究者のほうがより豊富な資料によってもっとりっぱに解明できるだろう。
 それにしても、私のはじめの予想以上に、中国でもロマン・ロランは広く深く生きていた。  
                                (1977年4月19日)




 〔補 遺〕

 この「ロマン・ロランと中国文学」は実はロマン・ロラン研究所主催、関西日仏学館後援の公開講演(昭和52年2月10日、於関西日仏学館稲畑ホール)でおこなった「現代中国文学におけるロマン・ロラン」と題する話の原稿を整理したものであり、従って、もともと「ユニテ」に掲載することになっていたものだが、宮本先生のご紹介によって、時期的にはひと足さきに雑誌「みすず」(昭和52年6月号)に掲載された。同じ原稿が両誌に掲載されるのはどうかとも思われるのだが、「ユニテ」「みすず」両誌の編集者のご諒承をえて両誌に掲載されることとなった。ただ、「みすず」に掲載したおかげで、ほかの人から資料についてご教示をいただいたり、その後、自分で見出した資料があったりしたので、「ユニテ」に掲載するにあたり、せめて「補遺」としてこれらの新しい資料をっけ加えて、両誌に掲載することの意味を自分なりになっとくしておきたいとも思う。
1. このテーマについて、京都大学人文科学研究所の現代中国研究班で報告したとき、その席上で、どなたであったかお名前を失念して申訳ないのだが、「東方雑誌」25巻(1928〜29年ごろ)に胡念之という人がロマン・ロランについてかいた文章を掲載している旨、口頭でご教示いただいた。その後、私はまだこの雑誌にあたって確かめていないが、そういう資料の存在をまずかきつけておきたい。
2. ついで、「資料年譜」の(39)にもあげた『訳文』(中国作家協会「訳文」編輯委員会編―主編者は茅盾)という雑誌の1955年11月号を偶然、頁をめくったら、「偉大なる十月社会主義革命三十八週年紀念」特集号として、ロマン・ロラン、アンリ・パルビュス、タゴール、・・…‥‥‥・ショーロホフなどの文章の翻訳が掲載されていた。ロマン・ロランについては、短いものだが「真正人民的革命」(真の人民の革命)という一文が蘇牧、盛澄華の訳で、この『訳文』の冒頭にかかげられている。
3. 香港中文大学を卒業して、京都大学文学部大学院博士課程に留学している黎活仁さんが、「みすず」を読んで、自分が集めていた三つの資料を、わざわざコピーをとって送りとどけてくださった。これはまことに貴重な資料だと思われるので、この紙面をかりて厚くお礼を申しあげるとともに、ここにつけ加えておきたい。
 @梁宗岱≪憶羅曼羅蘭≫(≪大公報≫中華民国二十五年(1936年)6月17日号の「文芸」(第164期)欄所載)梁宗岱は1904年生れ、広東省の人で、嶺南大学卒業後、ヨーロッパに留学した。彼はフランス語でも詩をかき、フランスではポール・ヴァレリーから深い影響を受けたが、同時にロマン・ロランからも精神と道徳の面で大きな影響を受けたことをこの文章で語っている。
 彼は後に北京大学、清華大学などの教授を歴任し、「晩躊」などの詩集や、ヴァレリーなどの詩の翻訳もしている。
 梁宗岱は広州の培正中学4年生、18才のとき、嶺南大学の学生の司徒喬、日本人留学生で詩人の草野心平を訪ねていったときのエピソードを述べている。彼らは寄宿舎の屋根裏部屋(頂楼テインロウ一苦学生の住むところ)で『ジャン・クリストフ』の英訳を読んでいた。たずねていった梁宗岱はあいさつもおわらぬうちにその会読に加わり、彼らは声を合わせて、ジャン・クリストフが生まれたとき、母親が祖父にむかっていう言葉:「なんておまえは醜いんだろう! なんてわたしはおまえが好きなんだろう!」というくだりを朗誦したことを語っている。梁は1927―28年ごろ、「ヨーロッパ」誌に2首のフランス語でかいた詩と、王維の詩の仏訳を発表し、ロマン・ロランがこれを賞揚した。その後、陶渕明の詩の翻訳をロマン・ロランに見せたとき、ロランは、「君の翻訳した陶渕明の詩が私を恍惚とさせるのは君の希有のフランス語の知識のせいばかりではなくて、これらの詩の単純で魅力的な美のせいだ。これらの詩の調子は私たちの古い土地からたちのばってくる匂いと同じものだ」と述べたという。この陶渕明詩の翻訳はヴァレリーに見てもらい、ヴァレリーの序文をつけて、1930年の秋に単行本として出版された。梁はロマン・ロランにこれを一冊おくっている。ロランはこれに対して懇切な礼状をかき、その中で、中国の古典詩と地中海のラテンの詩、ひいてはフランスの魂との間のふしぎな類似―血統関係―を指摘して、中国の古典語に対する深い共鳴を述べている。梁はレマン湖畔のロマン・ロランを1928年の10月17日に訪ねて、ロランとの交友を深めている。ロラン訪問といえば、本文中に敬隠漁という人がロマン・ロランを20年代初こ訪問したことにふれておいた。梁宗岱に会ったとき、ロランは敬隠漁のことをたいへん心配していて、「パリが彼をダメにした」と語ったという。敬隠漁氏には気の毒だが、魯迅の敬隠漁評と合わせて、われわれの関心をひく点がある。
 A孫梁 訳≪羅蔓・羅蘭文鈔≫(上海、新文芸出版社、1957年5月・全250頁)これは、はじめに「序文」に代えて、<ロマン・ロランについて>というロマン・ロラン評価を含む文章をかかげ、ついで、≪先駆者たち≫の中の<平和の祭壇>という詩の翻訳、論文として、≪戦いを超えて≫、≪先駆者たち≫、≪戦時日記≫選、≪自伝≫(<内面の旅路>)の翻訳、これに附録としてソビエトのトルスチンコ<芸術家、人道主義者、戦士>というロマン・ロマンについての論文、ニコラエフの<ロマン・ロラン論>をつけ加えた、かなり本格的なロマン・ロラン紹介の書物である。
 B孫梁 訳≪羅尋・羅蘭文鈔続編≫(上海、新文芸出版社、1958年3月、全250頁)これには、<まえがき>があり、≪ロマン・ロランのマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークへの手紙≫の翻訳がこの本の中心をなし、その後に≪音楽評論≫の二編の翻訳がつけ加えられている。 新中国になって、1957年、58年に、かなり本格的なロマン・ロラン紹介がおこなわれたことはこの二冊の訳書によって知りうる。また孫梁の<ロマン・ロランについて>という文章の注によって、次のような二つの資料の存在を知りうる。1955年に反党分子として処分された胡風のロマン・ロラン解釈が、真実を歪曲したものとして批判した黄秋云という人の<胡風反革命集団のロマン・ロランに対する歪曲を暴露する>という論文が≪訳文≫(1955年8月号)にあること、もう一つは何其芳く胡風の文芸理論面における破壊活動>という論文が≪文学研究集刊≫第2冊に掲載されており、その中で胡風のロマン・ロラン評価について批判をした部分があるらしい。なお、訳者の孫梁という人には別に、<ロマン・ロランの思想と芸術の源流について>という論文があって、≪華東師範大学学報≫に掲載されたらしい。
 以上が、≪みすず≫掲載後、今日に至るまでに新しく発見した資料であり、このような状況からすれば、まだまだ資料の発見が予想される。それにつけても、中国でのロマン・ロランという存在のひろがりとはばの大きさがどれほどのものかを認識させられる。最初の二つの資料(「大公報」「東方雑誌」)を除けば、後はすべて新中国になってから、50年代の資料である。大きな努力をしたわけでもないのに見えない糸に導かれるように、ここにこれだけの資料が集ってきたのは、なにかの奇縁なのであろうか。

                             (’77年12月10日)