戯曲『愛と死との戯れ』について



          『愛と死との戯れ』の講読を終えて
                            波多野  茂 弥

 一昨年の秋であったか,ロマン・ロランの作品の原書講読をはじめることになり,「ぜひ戯曲を」という希望に応えるべく,最初のテキストとして『愛と死との戯れ』をとりあげた。
 月に2回ずつの予定が,私の多忙のために,1回しかできない月もあったが,それでも去年の入梅の頃には,あと一息のところまで漕ぎつけた。そこで,最後の締めくくりとして,7月には3日間連続の勉強会をもった。暑いときに,これはなかなかの強行軍であったが,それまで何度も間をおいて少しずつ読んできたこの作品の全体的な流れと広がりを見定め,把握するためには,どうしても持続的な集中が必要であるところから,あえて提案し,実行したことであった。
 私としては,つとめて冷静客観的に,語学モニターの役割を果す一方,戯曲を読み込む上で欠かせない事柄だけを指摘し,説明していくつもりであった。というのは,いわば基礎工事を手伝うことが私の引き受けた役割であり,それが終わったあとは,参加者各人の自由な読みかたこそ,何にもまして尊重されねばならないと考えたからである。しかし,読み進むほどに,私はこの作品の魅力にまたしてもすっかり捉えられてしまった。フランス語による上演時間にしてせいぜい1時間半の,この一幕の悲劇がもつ格調高い美しさはどうであろう。また,そこに含まれている人間的・思想的内容の,なんという豊かさであろう。ソフィーの,ヴァレーの,そしてジュロームの,まさしく悲劇的なたたかいを,私自身の内部に生きながら,各瞬間・各人物のうちに見出される動かしがたい真実に,私は深く打たれる。・・・・・そんな次第で,私はつい感興の赴くままに自分の役割を忘れ,脱線に脱線を重ねることも一再ならずであった。この点,能力不足の上の準備不足とは別に,いまになって些か気がとがめているが,ロランの傑作『愛と死との戯れ』に免じて赦していただきたい。ともあれ,参加者のみなさんが,訳書から感じとれる以上のものを、幾らかでも得られたとすれば,私にとってそれに過ぎるよろこびはない。
                                    1974.6.14.




         [批評紹介]
         
シュテフアン・ツヴァイク「ロマン・ロラン」から
        《愛と死との戯れ》について

                                  
三木原   浩

 ロマン・ロランのフランス革命劇連作の一つ「愛と死との戯れ」の冒頭には、次のような献辞が見られる。

     全ヨーロッパを祖国として愛する心と,
     友愛の宗教とを持つ
     かわらざる精神の友
     シュテフアン・ツヴァイクに
     私は親愛の思いをもってこの戯曲を捧げる。
     この作のできたのは彼のお蔭である。
                          (片山敏彦訳)

 ところで、その当のツヴァイクは,この作品に対して,どのような評価を与えていただろうか?彼は,彼の「ロマン・ロラン」論補遺の中で,そのことに触れている。
 まず彼は、ロランが、この作品「愛と死との戯れ」において,かってなかったほどの強い劇的効果を示し得たことを指摘する。それは,劇作手法上の成果を意味するものであり,彼ツヴァイクは,それを次の二点に要約する、まず第一としては,すべての状況,事件、行為が、―それらは,どれほど大きな広がりをもって,一見複雑に混り合っているかのように見えることか―《ただ一幕の中で》急速に高揚され,凝縮され,そしてついには最後の大団円、ツヴァイク流に言うならば、最後の《悲壮な(英雄的な)一時間》の中に、見事なまでに収斂されているということ。そして第二点としては,その収斂されていくまでの過程において,《諸々の運命は相互に‥・‥しのぎ合い》,その運命の諸相を担う一人一人の登場人物の中に,ロランによって《自由に創作された諸事象》と《歴史上の諸要素》とがすばらしくも結合調和されているということである。―例えば,ジェローム・ド・クルヴォワジェは、天才化学者ラヴォワジェの特徴とコンドルセの魂の偉大さとを分かち持っている。またジェロームの妻ソフィーは,コンドルセの妻を思い出させると同時に,ルーヴェの勇敢な恋人を彷彿とさせる。さらにカルノーに関しては,以上とは別に,実に厳密に歴史的真実にのっとって描かれている,等々の点。
 次にツヴァイクは,作品全体を支配する精神的な雰囲気―それは《われわれに分析することのできないもの》であるが―を指摘し,その中こそ《全き真実よりも更に真実であるもの》を感得している。それは,実にわれわれを震撼させる《真実》ではある。なぜなら,《知性的な人々,道徳的な人々が,自分たち自身の思想によって流された血を前にして感ずる恐怖,革命ならなんであれ突進させるために必要ではあるが,その後には殺戮の陶酔の中で,すべての理想を呑み込んでしまうという人間の獣性の最も低劣で最も卑劣な本能に対する恐怖…さまざまな感情から来る戦慄,(死の)恐怖に捉えられた若い生命の永遠にして不滅の戦慄…魂も肉体も不可解な暗い力の支配下にあるという状態の全き耐えがたさ…》等々だからである。それは,過去,現在を通じていつの時代にも存在する《愛と義務,職責とより高い段階での真実との間》における悲痛な矛盾、葛藤を指し示すものである。 更にツヴァイクは,この戯曲の文体が持っ特質に言及している―つまり《詩的簡潔さと,その悲劇的旋律の純粋なリズムの流れとの故に,一篇のバラッドを思い浮かべさせられる》と。
 以上述べた事由を挙げた上で,彼ツヴァイクは,この作品を次のように、実に明解に断定する―《‥・「愛と死との戯れ」は,戯曲的且つ芸術的な観点において,ロランが今までに仕上げた最も完壁なものに属している》―と。




            ソフィーを中心に
                               
森   孝 子

 『愛と死との戯れ』は、ロランの連作戯曲「革命劇」のうちの一つで,これもやはり、フランス革命の時代の人間の悲劇である。しかしロランがこの戯曲の序文の中でも言っているように,彼がこの連作の全体の構想をもったのは、この戯曲を書く二十五年以上も以前のことであり,また,この戯曲とこの連作中での前作に当たる『七月十四日』との間には,およそ二十年の隔たりがある。そのせいか,この作には,これ以前の四編の戯曲とは少し違った点があるように思える。
 その一つとして考えられることは,(そしてこれがこの作全体の性格に大きな影響を及ばしているのであるが)この作においては,主人物達が,一つの立場や主義を代表する軍人や政治家(homme d'Etat)ではないということである。実在の人物,化学者ラヴォワジェと思想家であり数学者でもあったコンドルセをロラン的な意味で・・・・・・・・モデルとしているというジェローム・ド・クールヴォアジェは,国民議会の一員ではあるけれども,本来は,純然たる科学者である。そしてとりわけ,もう一人の主人物は,軍人や革命の指導者でないばかりか,革命に直接携わらない一人の女性である。もちろん,これまでの革命劇の中にも女性は登場している。けれども彼女らは,軍人や,革命家や,政治家である主人物達との関連において存在していたのであった。しかしこの『愛と死との戯れ』では、むしろ,この女性である主人物ソフィーの内面の《悲劇》が戯曲全体の主軸になっている観がある。その《悲劇》は,一つの政治的立場,原理,あるいは一国民,一社会の悲劇ではなく,個としての人間の魂の中に繰り広げられる《悲劇》である。そしてそれ故にこの《悲劇》は、この戯曲の《時》がフランス革命の時代であり,人物や事件が当時の史実にヒントを得ているとはいえ、まさしくそれが個的な魂の悲劇であるという理由で,ソフィーという一つの魂,革命という一つの時代を越えた,より普遍的で,より「永遠」な,人間共通の《悲劇》なのである。そしてこのことが,この戯曲全体に,真理によってもたらされる一種の精粋さと崇高さとの印象を与えている。ソフィーの魂の中のこの《悲劇》は、「革命」の時代にも,それ以前にも,それ以後にも,常に在ったし,常に在る《悲劇》である。その《悲劇》とは、ソフィーの台詞の中に見られるように,《義務》(devoir)と《情熱》(passion)との闘争の悲劇である。言いかえれば,ソフィーに,自己自身への《義務》をあくまでも遂行させようとする,彼女の中の意志の力と,是非もなく,盲目的に,瞬間的忘我の状態へと彼女を持ち上げて,どことも知れず彼女を運び去ろうとする《情熱》との闘争の《悲劇》である。
 ソフィーにとっての義務とは,第一にヴァレーが生きて自分を愛していると知った瞬間から,彼女の内にわきおこった意志と願望とに従うこと,つまり,ヴァレーを救い,彼女を生きさせること。そして,彼女がかつて全く自由な気持ちから自分を与えた夫のジェローム,彼女に対して常に正しかった彼から,自己の内の情熱に駆られて自分をとりあげて,自己の人間的価値を低めないことである。それ故,ソフィーにとっての《義務》はすべて,彼女自身の中に自然発生的に、一つの欲求として生じたものであって,他から彼女に強いられたものではない。(但し,そのために悲劇の度合いは一層増す。)この義務は,彼女が自分自身のために果たすべきものである。彼女が彼女自身であるために,どうしてもそうせずにはいられないのである。
 ヴァレーを救うということは,取りも直さず,ソフィーが自分自身を救うことである。ソフィーの生はヴァレーへの愛で満たされた。(「彼は私の人生のすべてでした‥・」《第一場》)その愛の対象であるヴァレーを救うことは、即ち彼女の愛そのものを救うことであり、延いては,その愛に満たされた,彼女の存在,彼女の生自体を救うことである。その故ヴァレーを救うということは,ソフィーにとって自分自身にどうしても果たさなければならない《義務》となるのである。躊躇なくこの義務を果たそうとするソフィーの内に,もう一つ別の願望が生じる。ヴァレーの激しい愛の告白によって自分の内にわきおこった情熱にはげしく揺り動かされたソフィーの中に生まれるもう一つの願望,ヴァレーの命を救うとともに,彼女自身がヴァレーと共に,彼との恋の中で生きつづけたいという望みがそれである。この望みのために行動すれば,彼女は,人間的存在として自ら果すべき《義務》を怠ることとなる。自分自身の自由な意志で,自分に対する全く真実な気持で,かつてソフィーは夫ジェロームに自分自身を与えた。夫の信念を自分の信念とし,夫の正しさを自分のそれとして、常に彼女は,夫に対する変らない愛情(affection)を持ち続けてきた。そこには,何らの偽りもなかった。にもかかわらず仮にこのソフイーがヴァレーと共に逃れるために,夫ジェロームと彼との生活とを捨てるならば,彼女は彼女がこれまで守り通してきた生を,これまでの彼女自身を成り立たせていたもののすべてを,彼女自身を失なうこととなる。ヴァレーを救うことによって救い守ることとなるはずの彼女自身の生を失なうこととなる。すべてを,自分自身をも失なっても,彼女の心情をとらえる顧みのために,盲目的に情熱に身をまかせるか,それとも,自分に与えられた生を,あくまでも自分自身として守り通すか、この選択のなかにソフィーの《悲劇》と苦悩が―そして人間共通の《悲劇》と苦悩が―ある、

 結局のところ,彼女は,後者を選んだ。ソフィーはヴァレーに向ってこう言う。
 「私達が恋に苦しまずにいるということはできないとしても,恋のおもちやにならずにいることはできますわ。」(第三場第十一景)この選択によって,彼女は,自己の情熱の玩具となることからものがれ得るのである。彼女にこのような苛酷な選択を強いた「運命」の前に,まっすぐに顔を上げて,夫ジェロームと共に,凛として,しかも穏やかに,晴やかに,死に赴くのである。
 ここに序文の最後の言葉が生きてくる。
 「一すじの光のために私の命を!―私はそれを失う。私はすでにそれを得ているのだ。」




          「愛と死との戯れ」勉強会に参加して
                             渡 辺 道 子


 私は不勉強で,「愛と死との戯れ」の時代的背景や歴史的事実をあまりさだかに知らない。ただ,翻訳本は短い文庫本でもあったのか一気に読んだのを記憶している。
 今回原文で読むセミナーに全部出席できなかったのはとても残念だが,とびとびに出席した感想文をここに記す。序文の中で,いい文章に度々出会った。翻訳本では,ただつらつらと読んでいた文章が,一語一語分析されるとあゝここはこういう意味だったのかと新たな感慨が随所に生まれた。また難解な所が波多野先生の注釈により,あたかも氷片が春の光に解けていくようであった。訳文だけでは味わえない単語の一つ一つが、まるで料理名人が美しく魚を造りして皿に盛りつけた感を受けた。他の作者の仏語も少しみたことはあるが,こんなに一つ一つの単語が選択され,吟味されている文章には出会ったことがなかった。さすがロランの文章だなと思った。今セミナーで講読している「ピエールとリユース」についてもほんとうにその感を強くする。だから少しでも仏語をおやりの方は,このセミナーに出席されると訳文とは異った原文の良さ,又ついみのがしてしまう文章などが解ると思う。少しでも難解の文章が分ったときの嬉しさは、又言うに言われないものがあり未熟なら未熟なだけに醍醐味がある。絵の展覧会をいいなと素通りして見るのじやなく,丁度少しだけ一つ一つの絵の意味することが分って絵を観賞しているようなものだと思う。会の雰囲気も主婦あり、学生あり,勤人ありでとてもユニークな勉強会であり内容が高度な割に,気楽に聴講できる特典もある。最後に相浦さんのお手製のお菓子のおいしいこともつけ加えておこう、何だかテレビのコマーシャルのようになった。




           「愛と死との戯れ」を読んで
                              福 島 光 章


 私が京都に来て,ロラン講読会に参加したのは、昨春であった。ロラン友の会が京都で活動していることを聞知っていた私は、躊緒ためらいもなく門戸を叩いた。月2回のロラン原書講読会を知ったのは、その時であった。全くの文盲の私は、この機を利して仏語を読んでみようと思った。そして,相変らず読めず,辞書を片手の悪戦苦闘で,朧げな怪しいものである。けれども,戯曲の専門家であられる波多野先生の,登場人物の心理や,見逃してはならない何気ない対話の意味,そして,用いられる衣裳としての言葉の美しさの指摘は,文学をいつも寝ながらにしか接しない私に、その真髄とはこういうものだ、と諭していた。そして、座を囲んでいる人々の暖かい心遣いで,無知の私を迎えてくれ,今日まで参加させていただいて感謝にたえない。
 こうして,昨夏までに,「愛と死との戯れ」を、読み終えた。
 この作品の舞台は,フランス革命期で,外は春,民衆は咲きほこるリラの花に甦る春を讃え幸福という疎遠になった言葉を取りもどし,束の間の喜びを友と分けあいながらも,永い間の革命と戦乱,さらにまさに始まっている恐怖政治の中で,寒さと飢えに蝕ばまれ,公安委員会の人喰鬼たちに,いつ捕えられるかという不安に戦き,かりそめの幸福に,生の永遠を託す諦念をいだいている。その死への諦念のためにか,かえって、いっさいを呑みつくそうとする情熱や卒直さで、「自分は一切を賭ける。」目前の永遠のために、憎しみ,喜び,愛し,死ぬ。生への限りない追悼看たちに,逆境の中を生きぬく力強い生命力,そして,なかんづく,自分を偽わることのできないたまさかな落ち着きを感ぜざるを得ない。かって、どれほどの人が,自分に対し真摯でありえただろうかと自問する。生の裏側の死を意識せざるを得ないという不幸が,魂の解放を呼び,心の平和をかすかに保ち,一切の賭けが,自己において勝っのである。さらに,この事は、美談として語られる類いのものではなく、良心のある民衆の中で日常具現されていることに,はっと驚かされるのである、そういう宿命をもつ人間に,哀れさと同時に,ほんとうの愛を感ぜずにはおれない。
 この戯曲のもう一つのモチーフとして,愛とは何かを問うていることは,興味深い、ソフィーは、若い恋人ヴァレーと逃亡することを断念し,夫ジェロームと死を選ばなければならなかった。おそらく多くの女性は、若い恋人と逃げてしまった方が人間味のあるものだし,自分もそうするだろうと考えるのであろう。だが、愛を誓った夫の,あの暗黒の社会の中で真に生きるために、死を決意している姿を、敢然と無視し得る女性は,どれほどいるのだろうか。おそらく、多くの場合、悲恋を選ぶのではないだろうか。だからこそ,できないからこそ,逃亡することに人間味を覚えるのであろう。しかし,赤裸々な人間の心は、厳しい現実の中ではこうなのだろう。そして恋の近視眼に対して,愛は,決して捨てないものであるという一つの遠視眼であることを例証したのではないかと思う。恋を断念する哀れさがこの愛によって償われることで,かろうじて自己を偽ることを救っているのである。道徳論的いやらしさを与えていないのは、本当に精一杯に自分のすべてを賭ける愛すべき人間の心の音楽が流れているからなのだと思う。そこに,ロランの真実に対する厳しさと優しさを感じる。




               想  い  出
                             相 浦 綾 子

 春浅く校庭の桜もまだ芽ぶかない頃、卒業生を送るための予餞会が行われるのが,その当時の母校の習わしであった。『青い鳥』『リヤ王』など、他のクラスのだしものが無難なものだった中で,私たちのクラスはロマン・ロランの『愛と死との戯れ』を演ずることにきめ,担任のM教授に報告した。
 時あたかも、”太平洋戦争”のさなか,国をあげて戦争遂行に協力させられ、英語は敵性語として女学校の教科から削られたりした時代である。私たち学芸部委員も,当然M教授のきびしい叱責と不許可を覚悟していた。ところが,M教授はいともあっさりとこの演目を認めて下さったのである。私たちはとび上ってよろこび、工夫をこらして『愛と死との戯れ』の演出にとりくんだのであった。
 今から思えば,しんそこからのリベラリストであったM教授にとって,当時の軍国主義の風潮は耐えがたいものであり、私たちに『愛と死との戯れ』を演じさせることで,せめてもの抵抗をされたのにちがいない。このことで校長との間にトラブルもあったと耳にしたが,若い私たちはM教授の苦衷を思いやるよりも,自分たちの選んだ革命劇をやれるということに、心を昂ぶらせていた。 片山敏彦訳の岩波文庫本は伏せ字だらけで,殊にジェロームが議会のようすをソフィに語るところなど,意味もまともにとれないほどひどい削除をされていたけれども、私たちのこの劇にかけた情熱が,成功をもたらしたのか,予餞会当日は大変な人気をとり,上演に反対した校長さえも,拍手を惜しまなかったほどであった。
 あれから30年,ジェロームに扮したYさんは医学の道に志して文科を去り,ソフィのMさんはクラスでいちばん早く結婚して良妻賢母に、ヴァレーのSさんは生粋の神戸っ子で魅力のある女性だったが、胸を病み、戦後誰よりも先に他界してしまった。カルノーのTさんは弁護士の夫君に先立たれ,女ひとり生きる道を模索して、今は大学出の男子社員多数を抱える堅実な会社の社長さんである。ベイヨーのNさんは高校の国語教師として活躍、オラースのHさんは真宗の寺に嫁いで坊守となり、壇家の人たちに歎異抄を講義するあけくれとか,ロドイスカのFさんは戦後の混乱期に消息を断って不明、早生れでいちばん小さかった私はクロリスに扮し、当日の記念写真の中でも子供っぽくうつっているが,戦後日仏で宮本先生のお教えを受け、ロマン・ロラン友の会ができて入会し,以後長年月を結婚・育児等で中断しながらも,浅からぬ縁に結ばれて,再びセミナーの一員として,多くの得難い友たちと共に学びうる幸せを感謝して今日に至った。
 波多野先生の御指導で一昨年秋から『愛と死との戯れ』をフランス語で読むことになり、私もそのグループに入れていただいて、忘れていた単語や文法を辿りながら,あの悪夢のような時代をロマン・ロランによって支えられて生きてきたあの友,この友の上に思いを馳せずにはいられない。 ”若くして枯れてゆくリラの一枝を”と望んで、夫ジェロームと共に静かに最期の時を迎えたソフィ役のあのMさんは幸せな家庭生活の中で永らえ、”どうしてもいやだ、死ぬのはいやだ”と叫んで,愛するソフィからさえ離れ,生きるために逃亡していったヴァレー役のSさんが,若くして逝ってしまったということは運命の皮肉であったのだろうか。
 あの時、リラの花が手に入らなくて,代りに舞台に飾ったフリージャが咲き乱れる今,想い出はつきることなく私の胸によみがえってくる。
                                 一九七四年三月