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『愛と死との戯れ』の講読を終えて
波多野 茂 弥
一昨年の秋であったか,ロマン・ロランの作品の原書講読をはじめることになり,「ぜひ戯曲を」という希望に応えるべく,最初のテキストとして『愛と死との戯れ』をとりあげた。
月に2回ずつの予定が,私の多忙のために,1回しかできない月もあったが,それでも去年の入梅の頃には,あと一息のところまで漕ぎつけた。そこで,最後の締めくくりとして,7月には3日間連続の勉強会をもった。暑いときに,これはなかなかの強行軍であったが,それまで何度も間をおいて少しずつ読んできたこの作品の全体的な流れと広がりを見定め,把握するためには,どうしても持続的な集中が必要であるところから,あえて提案し,実行したことであった。
私としては,つとめて冷静客観的に,語学モニターの役割を果す一方,戯曲を読み込む上で欠かせない事柄だけを指摘し,説明していくつもりであった。というのは,いわば基礎工事を手伝うことが私の引き受けた役割であり,それが終わったあとは,参加者各人の自由な読みかたこそ,何にもまして尊重されねばならないと考えたからである。しかし,読み進むほどに,私はこの作品の魅力にまたしてもすっかり捉えられてしまった。フランス語による上演時間にしてせいぜい1時間半の,この一幕の悲劇がもつ格調高い美しさはどうであろう。また,そこに含まれている人間的・思想的内容の,なんという豊かさであろう。ソフィーの,ヴァレーの,そしてジュロームの,まさしく悲劇的なたたかいを,私自身の内部に生きながら,各瞬間・各人物のうちに見出される動かしがたい真実に,私は深く打たれる。・・・・・そんな次第で,私はつい感興の赴くままに自分の役割を忘れ,脱線に脱線を重ねることも一再ならずであった。この点,能力不足の上の準備不足とは別に,いまになって些か気がとがめているが,ロランの傑作『愛と死との戯れ』に免じて赦していただきたい。ともあれ,参加者のみなさんが,訳書から感じとれる以上のものを、幾らかでも得られたとすれば,私にとってそれに過ぎるよろこびはない。
1974.6.14.
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