コミュニケーションとは何か?

(2002.3.24〜25)


参考図書:『他者の心は存在するか〈他者〉から〈私〉への進化論』(金沢創著/金子書房)

言語行為論によるアプローチ

本文より
82 語用論は、言葉の意味というものを、言葉を解読する文法のレベルではなく、その言葉が実際に使用されているコミュニケーション場面に即して考えていこうとする。

たとえば、誰かが「お金、持っている?」と発話したとする。この発話に対し、「はい、持っています」と答えて終わりにする人はいないだろう。当然、「お金、持っている?」という発話が意味するところは、「お金を貸してほしい」であったり「お金を下さい」といったものである。しかし、こうした「意味」は単純に「お金、持っている?」という発話を、文法的に解釈しただけでは導き出せない。

83 言語行為論ではその名のごとく、発話を単なる言葉を発している状態としてとらえるのではなく、一つの行動と考える。つまり、この例に即していえば、「お金、持っている?」という発話は、「依頼」という一つの行為であると考えることができる。あるいは、二人の関係次第では、それは「命令」という行為かもしれない。

自閉症が、「心の理論」の欠如ではないかと言われたり言語の「語用論」の障害であろうと言われる時、もしかしたら、「心の理論」を教え込み、言語の語用論的指導を強化すれば、普通の人になるのではないかという思惑があるような気がする。つまり、自閉症={普通の人}−{「心の理論」「語用論」の障害}、という発想があるのではないかと思われる。

確かにそれは、社会的な生活を可能にし、自分の身を守るための技術としては、本人にとっても役に立つものであるかもしれない。周りにいるほとんどすべての人が、言語の意味(語義論)だけでなく状況に応じたさまざまな用法(語用論)を駆使して会話している中に、外国人でもないのに辞書的・一義的・表面的な意味でしか言葉を使えない人がいたのでは、(本人には自覚がなくても)話の通じない人・気の利かない人として失笑を買ってしまう。

ただ、代表的なもののいくつかを教科書的に教えることはできても、それが日常生活で活用できるとは限らない。いつもいつも、教えた状況と全く同じ状況が起こるわけではないし、教わることとそれを現場で使えることは別問題だから。また、「この言い方は、こういう行動をせよと言っているのと意味だ」などと教えてしまったら、逆にとんでもなく危険なことでもある。


D・スペルベル&S・ウィルソンの、コミュニケーション理論

本文より
84 では、コード・モデルにかわる新しいコミュニケーション理論とはどのようなものなのか。スペルベルとウィルソンの主張に従えば、それは推論モデルということになる。
85 つまり、推論過程とは、解読過程(コード・モデル)ほど、うけとるメッセージが強く決まっているわけではなく、さまざまな論理的な規則によって、結論をゆるやかに「保証」する、といったものということになる。
86 では彼らは、コミュニケーションという現象を、従来のコード・モデルではなくどのようなものとしてとらえようとしたのだろうか。いきなり結論からいってしまうなら次のようなものとなる。

意図的なコミュニケーション…伝達者は刺激を作りだし、この刺激によって聴者(受け手)に想定集合{I}を顕在化、もしくは、より顕在化する意図をもつことを自分と受け手相互に顕在化するようにすること。

88 つまり顕在化とは、環境に存在しているさまざまな刺激に対する「呼び出し可能性」の高さを表わす指標のようなもの、ということになる。
89 外界の対象物の知覚を処理するだけでなく、記憶や想定をも処理する、ある特定の個人がかかわっている環境を、スペルベルらは認知環境とよんでいる。
93 「関連性理論」によれば、コミュニケーションとは、相手の認知環境に対し、刺激を提示することによって、ある想定を顕在化することであった。
110 相互顕在性という概念のメリットは、物理環境と知覚環境というより客観的な基準から、公然さという漠然としたものを定義した点にある。
123 情報意図:受け手に何かを知らせること(そして、そのような意図をもつこと)

伝達意図:受け手に情報意図を知らせること(そして、そのような意図をもつこと)

126 仮に、コミュニケーションを行っている二者の頭の中を観察できる観察者がいるとする。もしも、二者それぞれの認知環境における「相互顕在性」の分布パターンがずれているとき。このとき二者は「誤解」しあっているのである。そして、完全でないにせよ、この分布が似通っているのなら、両者は「理解」しあっているといえる。

D・スペルベル&S・ウィルソンの、コミュニケーション理論の問題点

本文より
116 結局のところ、送り手が、最初に入力された想定から推論規則によって最終的に算出される想定集合{I}を、顕在化するような意図をもっていたがどうか。この点が、ある「やりとり」をコミュニケーションたらしめる最も重要な特徴であるといえるだろう。よって、「言語(バーバル)/非言語(ノン・バーバル)という区別は、むしろ「意図的/非意図的」という区別にとってかわられることになると思われる。
119 こうして意図について考えてみると、スペルベルらの推論モデルが、実は意図的なコミュニケーションのみをコミュニケーションとして定義し、意図的でないやりとりは、コミュニケーションではないと切り捨てていることに気づく。
120 あらかじめいっておくなら、彼らのコミュニケーションの定義は、実は原著では「意図明示的推論伝達」の定義となっている。よって、彼らはこの定義文において、あらかじる「意図的なコミュニケーション」のみを定義しようとしているのであって、決してすべてのコミュニケーションを定義しているわけではない。
121 一般にコミュニケーションとよばれるものの中に、意図的でないような行動は確実に存在する。たとえば表情である。思わず顔がほころぶ、つい涙をこぼしてしまう、などの「笑顔」や「泣き顔」を作り出す顔の運動パターンは、「思わず」や「つい」などという表現が示しているように、意識的な制御が及んでいないことをあらわしている。と同時に、表情は、コミュニケーションとして確かに機能している。
124 0次のコミュニケーション…受け手に、何の意図ももたず、何かを知らせてしまうこと

このようなものを、コミュニケーションの定義に入れるべきではない、というのがスペルベルらの主張である。

「何の意図もないのに、受け手に何かを知らせてしまっていることはコミュニケーションではない。」と、いくら学者先生が著書の中で主張しても、実際は「ほとんど意図していないことの方が、よく伝わってしまう」のが常だ。非・自閉症者と自閉症者との間で起こる文化摩擦の原因は、ほとんどこれなのかもしれない。まずは、外見の印象と行動の奇異さ。それから、感情の伝わらなさから係わりが疎遠になってしまうこと、積極的に感情を害する問題行動や問題発言。

言語力のある自閉症者(アスペルガー症候群)にとっては、空間・時間・身体を度外視して言語だけで行えるコミュニケーションの方が、すれ違いが少なく、言いたいことをきちんと伝えることができるというのは、ある意味で当然のことかもしれない。/言語によるコミュニケーションがとれないタイプの自閉症者(カナータイプ)の場合は、身体(クレーン現象や飛び跳ねなど)・行動(注目してもらうために起こす問題行動など)⇒絵・写真⇒簡単なサイン⇒簡潔なシンボルといった具合に、本人のコミュニケーションレベルに応じたコミュニケーション手段を用いることで、相互のコミュニケーションが可能になる。

とはいえ、身体抜きの言語というコミュニケーションには、二つの相反する側面がある。一つには、言語によって「顕在化」したものが一致しさえすれば、お互いの「認知環境」のずれとは無関係に「分かり合える」ということ。そしてもう一つは、「認知環境」の突合せを行った際にそれぞれが「顕在化」したものが実は違っていたことが露呈した場合に、実は自分が誤解していただけなのにあたかも相手が「裏切り行為」としか思えなくなってしまうということ。自分が「顕在化」した認識は自分の「認知環境」に基づいた個別的なものである、ということがわかっていなければ、永久に「誤解」は修正されず、「理解」に辿り着くことはありえない。


デネットの、三つのコミュニケーションレベル

本文より
157 ここまで、「視線の認知」「模倣」などのテーマを中心とし、他個体の身体の状態をどのように認知しているかを議論してきた。こうした能力は、どちらかといえばコミュニケーションのより基礎的な側面にかかわる能力であると思われる。たしかに相手の物理的な身体を、単なる物体以上のものとして認識するためには、視線を認知したり、模倣を行ったりする能力が不可欠ではあるだろう。
157 「他者の心を読む」ということが成立するためには、少なくとも「他者の心」なる物理的には存在しない概念を、情報として表現する必要がある。この他者の心とは、具体的には他者がもっている信念や知識であったり、また他者がやろうとしている意図や欲求のことである。
158
  1. レベル1の心的状態:チンパンジーは、箱の中にバナナが入っていることを知っている。
  2. レベル2の心的状態:チンパンジーは、実験者がバナナを食べたいのを知っている。
  3. レベル3の心的状態:チンパンジーは、自分がバナナを食べたいと実験者が考えていることを知っている。
160 このレベル1の心的状態では、「わかって」何らかの行動を行うのであるから意図的、あるいは現象学の用語を用いて、志向的状態とよぶことができるだろう。また、レベル2の心的状態は、他者の心の状態を推測しているという意味で読心、レベル3の心的状態は埋め込まれた読心と名づけることができるだろう。
162 レベル1と2の違いは、他者の誤った信念を推測できるか、ということにもかかわってくる。もし、他者がもっている信念と、現在の客観的な状態とを区別できるのなら、その個体は、単に世界を表象できるだけでなく、他者の心の状態に関する表象も持ち合わせているということになるからだ。そして、この能力こそが、心の理論とよばれるものであったのは前章でみたとおりである。
166 レベル3になって、はじめて自分自身が自分の心の中に登場する
166 コミュニケーションとは、そもそも他者の心を覗き込もうとすることであった。その意味で、情報意図やレベル2において、コミュニケーションを行っている主体の関心事が他者の心の状態であることは納得が良くところである。ところが、伝達意図やレベル3のコミュニケーションにおいてき、その関心事であった他者の心から一歩踏込み、他者の眼をとおして自分というものがいかなる情報として処理されているかにその関心が移動している。つまり、この段階になって、はじめてコミュニケーションを行う各個体は、自己というものをもつことになるといえる。そして、そのことを可能にしているのは、他者からの視点である。ただ単に、相手に何かを知らせようとすることと、自分が相手から見てどのように見えるかを意識しながら相手に何かを知らせようとすることには、大きな違いがあるだろう。

デネットの、三つのコミュニケーションレベルに基づく仮説

本文より
174 では、レベル3のような複雑な他者認識をもつことは、利他的にはどのようなメリットがあるだろうか。ひとことでいえばそれは、個体が獲得した有益な情報の集団内での伝播、ということになるだろう。道具使用などの新しい発見は、少なくともその最初には個体レベルでの学習によるはずである。しかしもし、ある個体が獲得した有益な情報が、簡単に他個体へと伝播されるとしたらどうであろうか。その個体は、苦労して試行錯誤することなく、新しい情報を獲得することができるだろう。
177 このように、ひとことでまとめれば、利己的な面としてかけひき、利他的な面として教育、という二つの大きな要因が、コミュニケーション能力の進化の原動力となったものと思われる。
178 相手に何かを伝えたり、出し抜いたりするために、他個体の意図を深く読み取るようになったヒトという生物は、他者の心という論理的に矛盾した観念をもつようになった。そしてその結果、無意味な記号に意味を見いだし、石ころにさえ心を見いだすようになったと考えられる。
204 ここまでの説明から、「私」の進化に注目し、もう一度各レベルでの認識世界をまとめてみよう。
  1. 【レベル0】永遠で場所のない今に、感覚情報が並列されている世界。感覚情報は修正されることがない。ウソがない。環境に対して自動的に行動が形成される。「私」は感覚情報そのもの。
  2. 【レベル1】感覚情報のうち、修正されるものとされないものが分離される。修正されうる感覚情報は、外部世界とよばれるモデルを形成する。修正されない感覚情報は、内部世界としての「私」を形成する。
  3. 【レベル2】外部世界の中に、感覚情報をもつ物体である他者が登場する。定義上、「私」に属するはずの感覚情報は、物体のように扱われる。
  4. 【レベル3】他者の感覚情報の中に「私」が登場する。感覚情報は、それらが帰属される物体としての私の身体へと一つにまとめられて表現される。物理的外部世界の中に「私」があらわれる。

自閉症児は、レベル3に至るまでの時間が非常に長くかかる。重症度の違いなどによる、最終的な到達点と発達の度合いの違いもある。


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