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宗教を読む / 人は神になれるか

◆プロテストの行方
 @一神教の場合、構図として、神(啓示)→戒律(教義教典)→聖職者→人々と云う縦の図式は、 確固たるものとして規定されているところの、動かすことの出来ないものである。 上位から下位へ − 即ち、教えるもの(戒律〜聖職者)→教わるもの(人々)の構図である。
 A一方では、人の本性は罪人あると云う規定も存在する。
 Bしかしながら人は生来、”無色透明”の立場で出生してきた筈である。 そして、成長するには、当然にしての方向 − 人類永続のため −  を指向している。
 この場合、必然的に@AとBとに葛藤が生ずる −  即ち、上位が、一方的に自己の心の思いどおりに下位を評価することへの矛盾に対してである。 何故なら本人が”無色透明”であると認識して生れてきたのに、 「いや、お前は罪人(つみびと)だ」と宣告されたら、本人(読者)はどのよに感ずるであろうか。 「放っておくと、とんでもない大罪人になる、早く矯正しなければ……」と告知されたら……。 その矯正プログラムそのものが有名無実であったらどうだろう……。

 そのような環境の中で、既成概念に立ち向おうとして興ったのが、 プロテスト(異議を申し立てること。抗議。)の思想であろうと考えられる。
 
 しかし、戒律などが有名無実になりつつある昨今、 最早プロテストの必要性が失われてきているにも関わらず、 旧態依然として体制たる戒律にプロテスト(プロテスト紛いも含む) しようとする人々が後を絶たないのは、何故であろうか。 このプロテスト現象は、前述したような”形骸化された儀式たる造形集会”と相通じるところがある。 プロテストの亡霊(プロテストをしなければならないと云う思い)に 纏わりつかれているかのようである。
 
 今正に元罪人が、贖罪済み人間振って(人間紛いのことをして)、自己満足のために −  仰々しく大義名分化し − 対極側(異教徒・異邦人・反体制側)に対して当てのない、 根拠の薄弱なプロテスト活動をしていることは、遺憾なここと思われよう。
 
 世界宗教の特長でもある厳しい約束事は、「立場を入れ替える」 −  更新されることをしないことである。 通常我々生物の生涯は、生(幼児)→成人(成長) − 老人 − 死を経て次世代へと更新  − 入れ替わるのであるが、 世界宗教では異なる。 ”罪人→贖罪人→老人→死(善人)”の図式は、生まれ変わっても、 罪人しか生れてこない仕組みになっている。 もし、聖職者に子供が生れれば、その子は善人になる筈であるが、 聖職者は独身生活を貫くので、次世代を担う善人は誕生しない。 つまり、神の国たる善人の国は出現しないこととなる。 このような世界宗教経典の構築手法は、私が今まで読ませていただいた 書籍などから類推すると、仏教においても然りである。
 
 さて、既成概念へのプロテストは要をなさないとして − プロテストの行方は −  正の方向(善の助長)を指向して導かれて行くであろう − つまり −  模範的〜率先して範を垂れると云う活動へと変容して行くであろう。 子孫後進の者のために範を垂れる − 死後も子孫後進の者を見守ってやろうとする心意気である。 心に染み、胸に込み上げる、このような心意気は楽しいじゃないですか!! −  有意義じゃないですか!!
 
 神(啓示)→戒律(教義教典)→聖職者→人々と云う構図から、 人々→聖職者、そして聖職者→戒律の再構築→神と云う流れ、 換言すれば、主役の交代 − このような入れ替わり説は、 決して不可能ではない思想、プロテストの方針はこのように変って行くように思われる。
 そして、生来の罪人生来の善人を目指してのプロテストへ……(^-^ゞ 

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