GLN 宗教を読む

宗教を読む / 聖書の宗教

◆施し
『キリスト教とイスラム教』によると、
 キリスト教・イスラム教とも、貧しい人や生活に因っている人々への「施し」を、 基本的には宗教的を義務と考えています。 なかでも、その「義務」をより明確にしているのは、イスラム教のほうです。
 イスラム教の考え方では、自分の財産というものは、 すべてアッラーの神の恩寵によって得られたものとされています。 ですからそれを、生活に困っている人に施すのが、神の恩寵に応えた「善行」になります。 しかし、施しにはそのような「善行」としての施しだけではなく、 「義務」化された施しがあります。イスラム教ではそれを「喜捨」と呼んでいます。
 「喜捨」を表わすことばが二つあります。
 一つは、「ザカート」で、これはイスラム教の信仰を支える五行(柱) −  信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼 −  の一つとされています。強制的に義務化された喜捨で、 後世になるとザカートは国家によって徴収されるようになりました。 一種の税金(財産税、救貧税)です。
 もう一つは「サダカ」で、こちらは自発的な義務の喜捨です。 自発的な義務 − といった表現はいささかおかしいようですが、 「善行」としての施しは自分のためにする施しであって、 サダカのほうは貧しい人々のためにする施しだと考えればよいでしょう。
 
 イスラム教の世界では、
 − 持っている者は、持っていない者に施す義務がある。
 − 持っていない者は、持っている者から施しを受ける権利がある。
と考えられています。相手から要求される前に施しをするのが、「善行」の施しです。
 
 イスラム教のこの考え方からすれば、キリスト教では「善行」としての施しだけが言われていて、 「義務」化された施しはないことになります。 『新約聖書』は、施しを「富を天に積む」ことだと言っています。 「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、 尽きることのない富を天に積みなさい」(「ルカによる福音書」12)
 キリスト教が「義務」化された施しを説かないのは、表面的な行為よりも、 内面的な心のほうを重視したからでしょう。 と同時に、イスラム教はどちらかといえば共同体 −  教会の項で説明したように、イスラム教では、共同体のことを「ウンマ」と呼びます  − の宗教ですが、キリスト教は個人の宗教です。 そのため、イスラム教においては「ウンマ」 における相互扶助を重く見て、 それを「義務」とするのに対して、キリスト教のほうでは個人の自発性に重点を置きます。 そこのところが、両宗教の根本的な差だと思われます。
 
 神道では、やはりその目的とするところは、天壌無窮な宇宙空間、 即ち理想郷(=国家)を造営することにある。 したがって、時処位が滞っていると、格差が生じてくる。
 ※「時処位」については〔構図の項参照〕
 
 為政者は、時処位が停滞しないように絶えず配慮する義務がある。 為政者たる一義的義務は、時処位の活性化にほかならない。
 もし、為政者がこの義務を果たさなかったり、履行しなかったときは、 当然にして天誅(てんちゅう)を受ける。 過去の歴史をみるとは、為政者は、天誅を恐れて政治改革したり、 あるいは天誅を受けて滅亡したりした。
 
 即ち、「施し」とは、金銭や物資のことではなく、 為政者の政治施策そのものであると考える。 一方、被為政者は、各々時処位の中の自分の職務を全うすることで、 「施し」たる(結果としての)物心を得ることが出来る。
 私は神道における「施し」とは、 為政者による心のこもった温かい施策、 そして被為政者の勤勉さにあると思う。

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