GLN 宗教を読む

宗教を読む / 聖書の宗教

◆神秘主義
『キリスト教とイスラム教』によると、
 イスラム教には、スーフィズムと呼ばれる神秘主義があると聞きます。どういう考え方なのですか。キリスト教にも神秘主義はありますか。
 神秘主義というのは、簡単にいえば、「自己」が「絶対者」 と神秘的に合一できるという考え方にもとづいて、 「絶対者」と「自己」との神秘的合一を求める立場です。 イスラム教における「絶対者」はアッラーですから、 個人的修行者がこのアッラーと神秘的に合一しようとするのが、 スーフィズムと呼ばれるイスラム教神秘主義です。
 スーフィー″とは、アラビア語で「神秘家」を意味しますが、 語源的にはアラビア語で「羊毛」を意味するスーフ″から派生したとされています。 彼ら初期の神秘家たちが、羊毛製の粗服をまとっていたところから、そう呼ばれたのでしょう。
 羊毛の粗衣をまとうのは、じつは禁欲と清貧の象徴です。 八世紀末から九世紀はじめにかけて、イラクの地方に、 神の罰を恐れて禁欲的な生活をおくる修行者があらわれました。 初期のスーフィーですが、彼らはひたすら神だけを想い、 黙想と礼拝によって神に献身的な愛を捧げ、神以外のことは考えないようにしていました。 やがて十世紀、十一世紀になると、神秘主義の哲学体系がつくられます。
 その後、スーフィーの教団が成立するなど、 スーフィーたちは修道場で集団生活をするようになりました。 師弟関係を軸とした教団が形成されたのです。
 このようなスーフィーに対して、民衆のあいだでは徐々に崇拝の念が高まってきました。それ がいつのまにか、一種の聖者崇拝となったのです。
 
 キリスト教の神秘主義は、『新約聖書』におけるパウロの次のようなことばによくあらわれて います。
「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではあ りません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、 肉において生きているのは、わたしを愛し、 わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(「ガラテヤの信徒への手紙」2)
「キリストがわたしの内に生きておられるのです」といったことばは、「絶対者=キリスト」と 「自己=パウロ」との神秘的合一そのものです。ここに、キリスト教神秘主義の源泉があります。
 しかしながら − 。
 キリスト教という宗教は、本質的にイエス・キリストという「仲介者」 を設定することで成り立っている宗教です。すなわち、
「絶対者=ゴッド」 − 「神の子=キリスト」 − 「罪人=人間」
といったふうに、神の子であるキリストを「仲介者」として、 わたしたち人間が絶対者=ゴッドと結ばれるのです。
 一方、神秘主義を、絶対者=ゴッドと人間との直接的・神秘的合一と解するならば、 神の子=キリストの存在が無意味になります。 キリストの存在を無意味にして、はたしてキリスト教が成立するかどうか……。 パウロの場合は、キリストと自己との神秘的合一を言っているのですが、 それであればキリスト教は成立しますが、キリスト教神秘主義は、 イスラム教神秘主義(スーフィズム)とはだいぶちがったものになります。 イスラム教的な意味では、キリスト教に神秘主義はない −  と言ったほうがよいかもしれません。 しかしこれは、「神秘主義」の定義によりますから、 学者によっては議論の岐れるところです。
 
 この神秘主義は、仏教の密教と相通じるところがあると考えられよう。
 
* 密教
 密教(みっきょう)とは、 「大日如来が自らの悟りのなかで、自らの悟りを楽しみながら説く、奥深い絶対の真理の教え。 「大日経」「金剛頂経」などがその代表的経典。」(goo 辞書)
 密教での主目的の一つは、即身成仏のために修行することである。
 即ち、即身成仏(そくしんじょうぶつ)とは、 「〔仏〕 現在の身体のままで仏となること。天台宗など諸宗派で説かれるが、 特に真言宗では根本的教義とされ、 大日如来の真実の姿と修行者が一体となることで即身成仏が実現されるとする。即身菩提(ぼだい)。 」(goo 辞書)
 なお、即身仏とは、修行者が生きたままミイラになることであるが、 即身成仏とは、生きたままのなることである。
 
 神道では、人は死後、子孫後進の者の崇拝によって祖神となり、 国つ神の仲間に列せられるとされている。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]