GLN 宗教を読む

聖書の起源

◆イエスからキリストへ
* イエスの言葉 − 最古の伝承から
 われわれは、イエスの言葉をめぐる伝承と創作とのあいだの、微妙な接点を追究してきた。 結果はどうであったか。 明白なことは、伝承を生みたしたのは、イエスにたいする歴史的関心ではなく、 教団自体の生活に根ざした要求であったということである。 しかし、それにもかかわらず、第二次史料を除去して、 伝承の最古層において出会うイエスの言葉は、聴く者に悔改を求め、 決断を促す預言の言葉からなっている。
「あなたがたは、雲が西に起こるのを見るとすぐ、にわか雨がやってくる、と言う。 果してそのとおりになる。それから南風が吹くと、暑くなるだろう、と言う。 果してそのとおりになる。 偽善者よ、あなたがたは、天地の模様を見分けることを知りながら、 どうして今の時代を見分けることができないのか。 また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか」(ルカ一二・五四−五七)。
「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」 (ルカ九・六二)。
「わたしに従って釆なさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」 (マタイ八・二二)。
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。命にいたる門は狭く、 その道は細い」(マタイ七・一三−一四)。
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、自分の命を失う者は、それを救うであろう」 (マルコ八・三五)。
 
 これらの言葉は、伝承の最古層に属するイエスの言葉であるが、 いずれも人々にむかって決断を促す、強い預言の響きをとどめている。しかしそれだけではない。 イエスの言葉には、決定的な要求が含まれていた。
 
* 預言者イエスからキリストへ
「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。あなたがたに言っておく。 多くの預言者や王たちも、あなたがたが見ていることを見ようとしたが見ることができず、 あなたがたが聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。(ルカ一〇・二三−二四)。
「邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者にたいしては、 人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」 (マルコ八・三八)。
「誰でも人の前でわたしを受け入れる者を、人の子も神の使たちの前で受け入れるであろう。 しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろう」(ルカ一二・八−九)。
「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、 神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」(マタイ一二・二八、ルカ一一・二〇)。
「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、 貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」 (マタイ二・五、ルカ七・二二)。
 
 イエスは、自己を「神からつかわされたもの」、天からやってくる「人の子」 (ユダヤの終末論的天−人表象)として語っている。このことが問題なのだ。 イエスを受けいれることは、イエスの言葉だけを受けいれるのではなく、 イエスが神からつかわされたものとして語っているということ、そのことを事実として、 いや単なる事実以上の、歴史を変革する決定的な出来事として、受けいれることを意味していた。 この要求の前に立たされ、決断を求められたとき民衆はとまどい、つまずく結果となったのである。 現に大きなつまずきであったからこそ、さらにイエスはこう語ったのである。
「わたしにつまずかない者は、さいわいである」(マタイ一一・六、ルカ七・二三)。
 
 最初の教会は、こうしたイエスの求めにたいして、決断をもってこたえた人々の集合体 −  信仰共同体として成立した。福音書の原型は、この時、 民衆の決断のなかに、キリスト論的信仰告白として、最初の萌芽を見出した。
 
* 新約聖書のキリスト論
 伝承の最古の層に映しだされたイエスの言葉は、彼がひとりのすぐれた預言者であったことを、 明瞭に表現している。しかしけっして、それだけではなかった。 なぜなら、イエスの言葉には、終始一貫メシヤの響きがこめられているからである。 彼は、来たるべきについて語る。 が満ちて、神の支配が開始されたことについて語る。 悪霊は退散し、らい病人はきよめられ、死人はよみがえったことについて語る。
 重要なことは、そのように語る彼自身が、実は神からつかわされた者として語っている、 とう事実である。この事実の承認こそが、キリスト論成立の核であり、 そこにキリスト教誕生の秘密があった。
 
 新約聖書の大きな謎、いかにしてナザレびとイエスが、キリストとなったか。 いかにして、告知するものから告知されるものが生まれたか。 なぜに原始教団は、イエスの告知の内容だけでなく、イエス自身を告知したか。 その上、なぜにパウロやヨハネは、イエスの告知の内容を敢えて大胆に無視したか。
 こうした謎は、イエスの告知の内容にではなく、イエスが現に今、 神からつかわされたものとして語っている出来事に眼をむけないで、 イエスの言葉の内容 − 倫理的・道徳的・世界観的内容に眼をむけることによって生ずるのである。
 
 告知するものが、告知されるものとならねばならなかったのは、 イエスが神からつかわされたものとして語っているという、 その事実が決定的なことだったからである。 イエスの人柄や態度がではない。イエスその人が、今現に、ここにおいて語っているという、 その事実が、そしてそこにおける決断の要求が、決定的なことだったからである。[完]

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