GLN 宗教を読む

聖書の起源

◆ノアの洪水
 創世記によると、神が地上に人間を造ったことを悔いられたとき、 破局は正確にやってきた。 ヤハウェ資料は、カインから数えて七代目のレメクの子ノアのときに、 神のおそろしい鉄槌が、人間の上におよんだことを伝えている。
 それは、地のおもてにいたすべての生き物を、 ことごとく地上からぬぐい去る大洪水の襲撃であった。 雨は四十日四十夜、大地に降りそそぎ、水は百五十日、地のおもてをおおいつづけた。 水の退いたあとには、ノアと共に箱舟にいたものだけが残された。 これがアダムの子、殺人者カインの末裔の最期であった。 ノアが残されたのは、彼だけが「正しく、全き人であった」からである。 これが旧約聖書の伝える洪水神話である。
 
 ところでこの神話を、おそらくは、その原型であったに違いない古代オリエントの バビロニアやシュメールの洪水神話とくらべてみるとどうか。 両者のあいだにはその動機において、根本的な相違のあることがわかる。
 バビロニアやシュメールの神話では、洪水は偶発的に、 ほとんど神々の気まぐれなおもいつきからやってきた。 たとえばバビロニアの神話では、神が人類滅亡をきめたのは、 人間が騒々しくて、神々の安眠が妨害された結果にすぎない。 洪水は腹立ちまぎれに、不意にやってきた。
 
 しかし旧約聖書では違う。 洪水は、人間の腐敗堕落にたいする神の審判の結果であった。 創世記は、禁断の戒律を犯したアダムとイブの物語をはじめ、カインとアベルの物語など、 要するに神にたいする人間の反逆の物語を、すべて大洪水のプレリュードにセットしている。 洪水神話は、人間堕落の物語と固く結合されている。この結合が問題なのである。 それはけっして偶然ではない。そこには物語作者の明白な意図がある。
 創世記の作者は、ひとつの目的を、この物語にたくしている。 それは大洪水が、神の意志による徹底的な人間の滅びのドラマであること、 そしてこのドラマのなかで神は、まったく神自身の意志に従って、 棄て去るべき人間と救うべき人間とを、選別することを示唆している。
 創世記の作者は、地上の歴史を、神による棄却と選びの行為をとおして、 最後の「残りの人」にむかって収斂(しゅうれん)する救いの歴史とみているのである。 歴史にたいするこうした見方を、物語作者は、 イスラエルの民が経験しなければならないひとつひとつの出来事をとおして、 実に丹念に実証していく。 こうした数々の出来事からすると、大洪水は、たしかに規模こそ大きいが、 最初のひとつの滅びの挿話にすぎないのである。
 
 「ノアの洪水」とは、現実には起こり得ない自然の驚異を、 あたかも神のなせる仕業 − 奇跡 − である、とする考え方である。 即ち、ここで云う奇跡とは、主にキリスト教で、人々を信仰に導くため神によってなされたと 信じられている超自然的現象のことである。
 この神による奇跡は、イスラエルの民にとっては、とても重要なことなのであった。

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