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錦木山観音寺縁起

 
錦木山観音寺縁起
 
 抑(そもそも)当錦木山観音寺は人皇三十六代皇極(こうぎょく)天皇の御願所(ごがんしょ)で、当国の大守(たいしゅ)敏達(びたつ)天皇第五の宮瑞離(みずがき)皇子の御建立(ごこんりゅう)である。その起源は人皇十三代成務(せいむ)天皇の御宇(ぎょう)奥州黎民(れいみん)干戈(かんか)を動かすこと度々で、その来由は地理不分明にして民境(たみさかい)を争奪し、大は小を侵す故小は大に勝つこと能わず党を結びて斗争止まざる故、郡司(ぐんじ)を置き邪正を正し給う。北奥州五郡は大巳貴命(おおなむちのみこと)の苗裔(びょうえい)狭名大夫(さなのきみ)同帝三年当国に御下向(ごげこう)す。吏長(りちょう)を置き地の上下を分ち町数を定め境を限り堤溝(ていこう)を開かしむ。農耕の道を教え、是より農夫等悦服し堺を争う無く斗争止む。
 民人(たみびと)の賑うを、天皇褒美(ほうび)し給い、豊岡郡(とよおかのこおり)を改め狭名大夫の狭字を以て狭郡(きょうのこおり)と称号す。狭名大夫の在任三十七年、仲哀(ちゅうあい)天皇二年狭郡豊岳邑(とよおかのむら)で亡くなる。狭名大夫八代の後胤(こういん)政子女(じょ)、布と絹の技を工みとし或時より毛布(けふ)を織始む。民間の子女之を習うて色々の鳥毛(とりげ)を雑(まじ)え、毛布を織る。その頃同郡草城里長(くさぎのさとおさ)の子某、政子女に恋慕(れんぼ)し錦木を立ること三年、既に千束(ちづか)に及ぶ。政子女初めの程は人に慙(は)じ父を恐るるの心有りしも、月を重ねて夫が容貌(ようぼう)を見るに、吾故に初めに似ず面(おもて)痩せ身疲れ、恨声(うらみごえ)身中(みうち)に入り石針(いしばり)打ち命保つ如くみえ、身は古川里(ふるかわのさと)に心は草城里(くさぎのさと)に在て織業(おりわざ)稍(やや)荒(すさ)めり。父大海(おおみ)白く、祖先文石(あやし)不幸民間(みんかん)に落ち家貧しと雖も、狭名大夫より八代の家名(かめい)は人之を知る。里の子に嫁(か)し家名を辱(はずかし)めるは先祖に対し不幸の至りと、嫁するを許さず。里長の子是より病床に伏し針薬(しんやく)飲食を断ち、推古(すいこ)天皇七年七月十日遂に早世し、政子女哭泣(こくきゅう)止む事無し。心カク(しんかく)大に痛み暈(めまい)の果(はて)同月十五日無常の風に誘われ、命葉(めいよう)忽(たちま)ち落つ。大海悲嘆(ひたん)の余り長(おさ)が子の亡骸(なきがら)を乞うて政子女と同穴(どうけつ)し、千束(ちづか)の錦木を之に埋め、故に錦木塚と号す。
 人皇三十代敏達天皇物部守屋(もののべのもりや)を師と為(な)し、佛法を非とす。父皇欽明(きんめい)帝の時百済(くだら)より釈迦(しゃか)像を献じのちに経文(きょうもん)を奉る。厩戸皇子(うまやどのおうじ。聖徳太子)蘇我馬子(そがのうまこ)は彿法を尊崇するも、時に疫病大に流行。守屋曰く、是異佛(いぶつ)を信じ国神(こくしん・くにがみ)を軽んじたるに因ると。堂を毀し仏像を焼き、僧を遠島(えんう)に逐(お)う。用明(ようめい)帝の崩後(ほうご)、守屋は穴穂部皇子(あなほべのおうじ)の即位を図るも、馬子従わず却(かえっ)て穴穂部を弑(しい)し、守屋一族を悉く害す。敏達帝第五宮は守屋の女(むすめ)岩手姫(いわてひめ)生みし皇子(みこ)、、皇子の列を除かれ庶人(しょにん)に落ち奥州へ配流(はいる)となる。北奥の部吏(ぶり)有麻麿(ありままろ)密(ひそかに)に五宮を迎え、宮造(みやづくり)して恭敬(きょうけい)し、猪人(いひと)初め五郡の官司等(かんしら)豊岡に来て尊護敬伏(そんごけいふく)す。
 三十六代皇極(こうぎょく)天皇元年五宮七十歳配流勅免(ちょくめん)ありて上京し給う。配所にあること五十二年、この時当国産物毛布細布三百反砂金百両を献ず。帝(みかど)、大職官鎌子(かまこ)に曰く。朕、伯父七人伯母十人あり。幸(さいわい)に五宮残り給い、父大兄皇子(おおえのおうじ)に再会の念いせりと御落涙甚し。其時、鎌子毛布細布の由来を叡聞(えいぶん)に達す。帝御感涙を押え、狭名は往昔勲功の臣曾ての名家也、政子女に至り家断絶す、痛哭(つうこく)に堪えず。一宇(いちう)の堂を草創し亡魂(ぼうこん)を慰(い)せよと、正観音(しょうかんのん)一躯(いっく)を賜う。誠に有難き勅願にて、同四年五宮一寺を造立(ぞうりゅう)して御下賜(ごかし)の観世音を安置、錦木山観音寺と称号す。仁恩(じんおん)に困り亡魂安養聖衆(しょうじゅ)に列し碧落(へきらく)遥隔(ようかく)都卒天(とそつてん)に生ぜん噫々(ああ)孝徳(こうとく)天皇大化(たいか)元乙巳(きのとみ)年八月二日導師(どうし)恵正法師(えしょうほうし)敬白(けいはく)。
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