第四節 大里川原稲荷神社先祓舞 一 芸能の由来 (1) 由来 この芸能がいつから演じられるようになったかははっきりしないが、兄 畑(岩手県八幡平市旧田山地区)から伝えられたものとして兄畑舞ともい われ、兄川舞とは少し異なるという。 戦前(第二次世界大戦)の大里川原稲荷神社の祭典は、二家、即ち治右 エ門家こと現在の浅石幸二宅と、重五郎家こと現在の浅石昌敏宅の旧家の 間を、道中に提灯などの飾りつけをして、神輿の行列だけを行っていた。 それでは何だか物足りないということで、岩手県八幡平市旧田山地区から 先祓舞を導入し、「道中を清める」という意味で、神輿の行列(巡幸とも。 以下単に「渡御(とぎょ)」という。)に先立って舞っていたらしい。そ の後、この先祓舞は戦争のために中断された。 戦後の昭和二十四年ころ、大里部落の代表者が同市の兄川地区に出向き、 先祓舞を伝承し、同二十五年より、この大里川原神社の渡御のときの先祓 舞として舞われるようになった。 なお、明治・大正時代、津江広治氏の父から手ほどきを受けた菊池政吉氏 が舞手に伝承した、との調査記録もある。 (2) 川原稲荷神社 川原稲荷神社の創建については、明確に記したものが無く、残念ながら 不明であるとされている。 最も古い記録は、江戸の延享三年(西暦一七四六)に修理をしたとされ るものである。 明治三年「奉仕社領之儀明細書上帳」には、次のような主旨のことが記 されている。 即ち天明二年(一七八二)、大里に領地を有していた南部藩中村小次郎 が、社殿を再建した。 正一位(しょういちい)の神位は、明和四年(一七六七)七月と文化元 年(一八〇四)六月に、大里村の住人である作助が京都に上り、伏見家 (伏見稲荷神社)神官にお願いして頂戴したものである。社領地(東西十 五間ほど、南北十四間ほど)は、天明二年同中村小次郎より寄進された。 その後、文政十年(一八二七)に大里村の三太が白川家より、弘化二年 (一八四五)に善治郎が伏見家より、嘉永元年(一八四八)に源右ヱ門が 伏見家より、慶応元年(一八 六五)に半九郎が伏見家より、それぞれ御神号(いわゆる御神体)を頂戴 したという。 弘化の頃(一八四四〜一八四八)、五の宮薬師神社の背後の沢に、大地 すべりがあり、そのため稲荷滝(歌内川)にあった神社が押し流されてき て、現在の川原稲荷神社のある辺りにとどまった。そこに現在の川原稲荷 神社を建立したとされている。 ところで、この稲荷神社にまつわる話が言い伝えられている。 昔々十和田湖に住んでいた八郎太郎が、南祖坊との戦いに敗れて十和田 湖を追われ、生まれ故郷の鹿角に移り住みたいと思った。そこで八郎太郎 は、男神と女神の間の米代川を堰き止めて鹿角の里を湖にしようとした。 このことを知った鹿角の四十三柱(神社)の神さまは、集宮に集まって 相談し、八郎太郎を追い出そうとした。 その時、大里の稲荷神は、「我が稲荷神社は、五の宮山麓の歌内沢の奥 に鎮座しているので、鹿角が湖になっても、鹿角で一番高い所にいるので、 湖の底に沈むことはないから、戦はしない」と、この相談に参加しなかっ た。それを聞いたほかの神さまが怒って、大雨を降らし、大里の稲荷神社 を現在地まで押し流してしまった。 しかたなく大里の稲荷神社も戦に参加することとなり、勇敢に戦って見 事に八郎太郎を追いやったという。この戦により、大里の稲荷神社の神さ まは刀傷を負ったとされ、現在奉安されている七つのご神体の内の一体に、 その痕が見られるという。 二 芸能の記録 (1) 先祓舞の練習 八月十日から十四日の、午後七時半ごろから二時間、自治会員浅石康明 氏などの指導のもとに練習した。 練習会場は、川原稲荷神社に隣接する大里部落(集落のこと)自治会館 (公民館分館)である。 (2) 宵宮 八月十五日、この日は大里川原稲荷神社祭典の宵宮の日である。 午後二時、氏子二人と自治会役員たちが神社に集合した。ここ大里川原 稲荷神社でいう氏子とは、前掲したように旧家二家(浅石幸二氏と浅石昌 敏氏)のことである。祭式には、これらの人たちが祭員として参加するの だという。 まず社殿の清掃から始まった。終わって、神輿の飾りつけと、社殿の飾 りつけが行われた。 神輿は神社内に安置されているが、その他の神具や飾りつけ用の品々は 浅石昌敏氏宅に保管してある。以前はこれらの諸品は浅石幸二氏宅におい て管理していたが、現在では浅石昌敏氏宅で管理している。 午後六時、社殿では宵宮の祭式が行われた。即ち、お祓い、宮司祝詞奏 上、祭員以下拝礼、神輿へご神体をうつす神事などの後、直会に入った。 大里川原稲荷神社祭典の祭式を執り行うのは、安倍良行宮司と安倍良直 禰宜である。 なお、ご神体を神輿へうつす神事のとき、青年会による触れ大太鼓が叩 かれた。 午後六時半ころから三々五々、各自宅で舞い手の姿に着替えた舞子たち が集まってきた。 宵宮のときの履き物は、運動靴であった。太鼓や笛、鉦を担当する囃子方 は、きりりとした浴衣姿である。 舞子たちは社殿前に整列し、指導者などからの注意があった。 午後八時、祭員たちや、集落の人々の見守る中で、大里川原稲荷神社先 祓舞が順次奉納された。太鼓たたき手二人を先頭に、舞子たちは年長者か ら順に、境内を右廻りに回り始めた。笛吹き手や、鉦たたき手は、その外 側に陣取っていた。 太鼓の拍子は、軽快である、正確無比である、躍動感がある。順次、十 二種類の舞演目が奉納された。舞の途中に、内外の参拝者などによる花が 上がり、その都度青年会による花代の口上があった。青年会は、この先祓 舞奉納における進行管理を一手に担っているようである。 中学三年生たちによる杵取り舞も奉納された。 無事、宵宮の先祓舞奉納が終了した。青年会員や囃子方は、社殿に昇っ て、宵宮の 拝礼をし、直会へ入っていった。舞子たちは、家人などと一緒に帰宅の途 についた。 やがて、神社の戸障子が閉められ、この後氏子二人は、神輿に奉安され ているご神体を夜通しお守りすることとなっている。 (3)例大祭 八月十六日、大里川原稲荷神社祭典の例大祭の日である。集落の自治会 員たちは、早朝の午前五時から、それぞれ渡御の道筋を清掃する。 午前八時半、社殿において、神職、氏子や自治会役員など祭員による例 祭祭式が行われた。 午前九時、いよいよ渡御の触れ大太鼓がたたかれ、渡御が開始された。 渡御の列は、太鼓を先頭に舞子たち、幟旗、松の木、賽銭箱や御幣、笹 竹、神輿、神職など祭員、触れ太鼓などである。 舞子たちは、渡御の先祓い、つまり「先祓いの舞」を舞いながら予定さ れた道順を進んでいった。 渡御の道順とは、自治会の各班長の自宅を順次廻るのである。神社から 近い班長の家から順に、即ち三班、四班、五班、六班、八班、十班、九班、 二班、七班、一班の順に廻る。ただし、六班と一班では氏子の家を廻る。 各班では、班員が班長の家に集まって、渡御を招き入れる。賽銭箱や神輿 などが家の奥座敷に導かれ、班員によるご祈祷(五穀豊穣や安全・健康など) の神事が行われる。建築上など神輿の入らない家では、前庭などで神事が 行われた。 この間、外庭で待機している舞子たちや囃子方、また参観者たちには、 お神酒や冷たいビール、季節の果物やアイスクリーム、清涼飲料などが振 舞われた。やがて当該班長の家での神事が終わると、外庭では先祓舞が舞 われた。氏子の家では、先祓舞は舞子全員により全種目舞われるが、その ほかの家では、舞子の半数が交代で、数種目が舞われる。花しては、班員 全員によるものや、当該班に縁の方々から花代が上げられた。 渡御は、途中自治会館にてお昼の休憩をした。 午後三時、集落内の予定道順を渡御した神輿は、無事神社へ還幸、つま り神社の外周を先祓舞を舞いながら三周した。社殿では、神輿から本殿へ ご神体をうつす神事など、とどこおりなく例大祭の祭式が終了した。 祭式が終わると、最後の先祓舞の奉納である。全種目の舞が奉納された。 立車のときは、 太鼓たたき手は、太鼓をたたきながら、目にもとまらぬ速さで駆け出し、 左右に分かれた舞子の間を往復し、参拝者の気をひいた。 杵取り舞のときは、舞子三人がそれぞれ舞った後、一人の青年会員が飛 び出してきて、「昔取った杵塚」を披露して、笑いを誘った。またときど き、大人たちや青年会員たちも、舞いの輪の中に入ったりした。 この大里川原稲荷神社先祓舞の舞子たちによる舞いは、伝統的に、指導 者による指導練習の賜物であろうか、舞の所作の完成度というか、熟達し た演技というか、また全員が一糸乱れぬというか、二日間にわたって、き びきびした演技を披露してくれて、参拝者や観衆を楽しませてくれた。 ところで、この大里川原稲荷神社の例祭に参加する人は、全て男性のみ である。したがって、女性たちはこの祭典では、いわゆる「蚊帳の外」の 立場ではあるが、各班でのもてなしでは、女性たちは主役となって立ち回 っていた。また印象に残ったのは、神社での最後の先祓舞奉納のときの観 衆は、女子の児童生徒や若い女性たち、また子連れの母親たちでほぼ占め られた観があり、盛んな声援を送っていたことであった。 なお、履き古した草鞋は、それぞれの自宅で適宜処分するとのことであ った。 |