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12 土深井裸まいり

 稲荷神社は、土深井集落の方を向いて、東向きというより、やや北東寄
りに建っているかに感じられる。
 神社は普通、南向き、または東向きに建つのが通例とされる。しかし、
特別な目的を帯びた神社にあっては、必ずしもそのように建っていない。
 例えば同市八幡平字三ケ田に鎮座する古四王神社は北向きに建っている。
これは主祭神の大彦命は、嵩神天皇時代に日本各地を治めるために派遣さ
れた四道将軍の一人で、命の任務は北門を鎮護することにあったとされる
ため、古四王神社は北を向いて建っているのである。
 
 この稲荷神社は、「土深井」を守ってもらいたいという住民の願いによ
って、このように土深井集落の方を向いて建っているものと考えられる。
 ちなみに、小沢をはさんで向かい側に建っている高梨子稲荷神社は、土
深井の稲荷神社に背を向け、西向きに建っている。この地は、旧盛岡藩と、
旧秋田藩とで、その境界をめぐって長い間紛争の絶えなかった地である。
この裸まいりの行事も、境界紛争に関して、土深井側の住民の示威を表す
神事が由来ともされている。
 
 稲荷信仰とは、稲荷大神、すなわち伏見稲荷大社(京都市伏見区に鎮座)
の主祭神である宇迦之御魂神の信仰である。
 宇迦之御魂神は、五穀(米・麦・粟・豆・黍(又は稗))を始めすべての食
物や蚕桑のことを司る神で、「稲生り」が約音便によりイナリとなったが、
その神像が稲を荷っているところから稲荷の字を充てたといわれている。
わが国は、往古から農業国で水田に稲を作り、米を主食としていたので、
深く農耕神を信仰し、これが自然に稲荷信仰と結びついたと考えられてい
る。
 
 土深井の稲荷神社のご祭神も、宇迦之御魂神(稲倉魂命)とされる。
 鹿角地方には、稲荷神社(稲荷堂・稲荷様)は、ほぼ全集落に祀られて
いる。
 その中で主な稲荷神社は、鹿角市八幡平字日尊、同花輪字稲荷河原、同
間瀬川、同寺坂、同下長根、同十和田錦木字稲生、同曲谷地、同十和田末
広字上屋敷、及び小坂町尾樽部に鎮座し、それぞれ宗教法人登録している
(平成十六年一月現在)。
 
 土深井集落では、この稲荷神社を産土様(鎮守神・氏神とも)としてい
る。
 産土神とは、祖先もしくは自己の出身地又は永住地を価値的な出自意識
をもって表現する言葉であり、従ってその土地の守護神を自己の出自に伴
う運命をも司るものと信じて、これを産土神と称する。すなわち産土神は、
その地域やその住民をあまねく守護する神とされる。
 
 稲荷神社の鴨居には、次のような趣旨が記載されている銘板が掲示され
ている。
 
 「明治三十七八年戦争ノ際当村ヨリ戦役ニ加ハリ実戦致シ数回モ稲荷大
神ノ御神徳ニ依リ無難ニ凱旋帰宅致事ニ付記念ノ為メ国旗二流樹木植生寄
附人名左ニ表ス
 錦木村大字末廣小字土深井
  柳澤専治
  柳澤兵太郎
  柳澤仁太郎
  村木文次郎
  村木寅吉
  柳澤長六
  高野巳之助
  成田市五郎
  村木佐吉
 外ニ寄附人
  村木子之松
 明治四拾年旧四月八日
         敬白」
 この高梨子館の鎮守の森は、比較的若い杉林である。その二、三〇年生
の若い杉の中に、幾本かの老木が生えている。その老木は、今の杉林の前
生樹、つまり明治四十年に植えられたものであると思われる。この時代、
つまり明治四十年前後は、全国にわたって杉の植林が奨励されたとされて
いる。
 
 更に拝殿には、次のような銘板も掲げられている。
 「祈念植樹
 一、御門杉貳本
   大正九年十月入営記念
 奉納  柳沢常三郎」
 第三の鳥居の所に、この御門杉が、堂々とそびえている。
 これらのことからも、この鎮守の森に鎮座する稲荷神社は、地元住民の
厚い信仰が現在まで引き継がれていることがうかがわれる。
 なお、鳥居の額束には「稲荷大明神」と書かれているものが見受けられ
るが、これは、稲荷神を尊んで「稲荷大明神」と称しているのである。
 
 毎月二十日は、稲荷神社の祭日である。そこで正月の祭日の前夜、つま
り十九日の宵宮に、綱(大注連縄のこと)を納めて、翌日の祭日を迎えた
ものと推察される。
 それが大水害や藩境紛争などの要因が付加され、このような裸まいりの
行事になったものであろう。
 旧正月十九日は、新暦では月遅れの二月十九日となり、その頃がたまた
ま休日の第三日曜日に当たるため、近年は第三日曜日に裸まいりを行うこ
ととしたものである。
 
 隔年ということについては、大注連縄を作るということは、大変な労力
や費用を要することでもあり、また注連縄は二年間程度は保たれるものと
して、隔年の行事として定着したものと考えられる。
 
 稲荷神社の境内には狛犬一対が奉納されている。台座の下部には、「元
治元年、土深井郷中一同」と刻まれており、当時からこの稲荷神社は信仰
の厚かったことがうかがわれる。

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