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11 川原大神楽

四、祭典と町内の取り組み
 
 『鹿角市史(第四巻)』には、次のような記述がある。
 
 毛馬内の月山神社の例大祭は、旧暦では六月十三日に行われ、十二日の
宵宮には祭典の笠揃えがあり、十三日には上町、中町から組立式の踊屋台
が出されて賑わい、祭見物にたくさんの人が出た。この屋台は幅一間半、
長さ二間ほど、京風で破風屋根に一、五メートルの高床が特徴であった。
祭典にあたっては上町、中町、下町ごとに運営組織をつくり、町内ごとに
運営されていた。
 町内の大行事である付祭(屋台を出し、芸能を奉納すること)の実施は
若者頭に任されていた。上部機関として顧問・相談役がいたが、教示の進
めかたについてはほとんど若者に任されていた。
 下町の『大正十一年旧六月拾参日祭典録』は、同年に行われた若者集会
の会議録ともいうべきもので、当時の祭典運営組織、決まりが明らかにさ
れている。運営の最高責任者は元老で、この下部機関(定員不明)に中老
があり、元老と若者の間を円滑にとりもつ。町内事務、行事、活動の実際
面の担当者は若者である。この年、若者を統括する若者頭を三名(前年は
二名)選出しているが、次点者名も記録されていることから、選挙で決定
したものと思われる。若者頭は「元老・中老ノ斯道ヲ仰ギ」ながら「町内
若者ヲ統一シ、町内事務ニ当ル」とされている。
 
 この若者集会に際して元老たちが若者のあり方について指導しているが、
その中に興味深い点がいくつかある。その一つは若者の中で「意志アル者
ハ若者頭ヲ経テ中老、元老ニ請願スベキモノナリ」とされている点であり、
いま一つは「身分等ニ関セズ長ノ命ニ従ヒ幼ヲ慈ミ親睦ヲ旨」として運営
にあたってきたのだから、今の若者たちもそうであって欲しいという点で
ある。前者は若者頭を差し置いての請願は不可とし、後者は士族と平民、
地主と小作、大家と借家人という身分などにはこだわらぬようにと、祭典
運営の基本的心構えを示しており、当時の社会情勢としては重要な留意事
項であったと思われる。
 なおこの記録は、祭典時における当番宿についても触れている。当番宿
とは「余興開催若シクハ是レニ相当スル年ニ元老ヲ招ジ、余興開催ノ諾否
ヲ元老相談会ニ掛ケ」る会場宿で、余興実施のときは「大黒天ヲ据奉リ
…… 月山神社祭典三日間安置シ、丁内ハ勿論一般ニモ参拝」させ「紅白
ノ御供餅御神燈」を供える場所でもある。同時に当番宿は「余興開催及其
ノ後始末マデノ宿ヲ務ムル」ので、余興開催の主体である若者たちの作業
や打ち合わせの会場でもあったと思われる。しかもこの当番宿は町内六戸
の持ち回りで「当番宿ハ当然其ノ責務ヲ全シ拒絶スルノ権利ヲ有セズ」と
か「従テ事故発生シタル場合ハ、当番宿ハ他ニ依頼スベキモノトス」とい
う規制もあり、なかなかに負担の重い役割でもあった。
 
 一方、中町町内記録には中町若者組の祭典時における役職表が記載され
ている。年代が記録されていないが、構成員の顔ぶれからみて大正中期こ
ろと思われる。
  太鼓係    十二名
  庶務係     四名
  人夫係     二名
  花持係     一名
  花受係     一名
  騎馬係     二名
  蝋燭係     一名
  屋台付添係   五名
  賄方      一名
  事務所詰    一名
  屋台取締頭   一名
  会計      一名
 
 祭典の経費は町内からの寄付によったが、御三家といわれる町内のオキ
ガタ(大方)が台付となり、高額の負担をしていた。この寄付はほかの町
内の動向によって変更されることもあった。『昭和四年七月寄付帳・中町』
の「昭和四年七月祭典ニ際シ記録」によると、次のようなことがあった。
中町では予算百円で屋台を出し寄付を募ることにしたが、たまたま上町で
予算二百円で屋台踊を出すとのことで、顧問を交えて相談した結果、「上
町ニ於テ弐百円ノ予算ニテ出シナラバ、当中町丁内ニ於テモ相当ノ予算ヲ
以テ寄付募集スル」こととし、相談役の了解を得て百八十円の寄付を募る
ことになった。このため「他町ニテハ踊余興等一切ナク、只々当中町丁内
丈屋台ヲ出シタルタメ殆ンド中町ノ祭典ノ如キニ呈シタルハ、最モ永遠ニ
記録スベキコトナリ」としている。なおこのころの踊りは、毛馬内または
花輪、ときによっては小坂から芸者、踊り子や三味線ひきを頼んだり、町
内の若者たちが稽古をつんで屋台に上がったりしていた。古老の話による
と、かつて若者の手で、義経千本桜の静御前と狐忠信が踊られたという。
 
 中町文書のなかに、四冊の『屋台預帳』がある。中町の屋台は明治三十
四年のころ大工棟梁杉本喜助、虎渡熊吉、塗師中村伝左衛門(三人とも中
町住人)により製作され、見返しだけは弘前で作られたという。この町内
財産である祭屋台は、中町では祭典が終わると解体し、若者組でその部分
部分を自家の蔵に格納し、次の祭典まで保管していた。この際、誰がどの
部分を保管する役目だったかの明細記録が『屋台預帳』である。
 町内で倉庫を持ち、そこに解体した屋台を格納するところもあるなかで、
中町の若者組は責任の所在を確認しながら、自ら町内財産の管理保管に務
めてきた。
 
 このように、毛馬内の人たちは、町内あげて月山神社の祭典に取り組ん
できたことがわかる。
 川原町内でも、町内一致協力したり創意工夫したりして「川原大神楽」
の保存伝承に務めてきたのである。
 
………
(完)
「川原大神楽」

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