山の枯木のつぶやき(4) |
(付)よろけ坂 「よろけ」の話しの中で、よろけ坂のことにも触れたいと思ったが、余白の見当がつかないので やめにしたが、余裕ができたので。 私が下タ沢から軽井沢にきたのは、昭和二十七年頃であったと思う。 いわゆる六軒長屋の真中あたり(三軒目の四軒目)、片方の端は武田萬助、 片方の端は成田万で、萬助さんはヤセ型で背が高く、万さんの方は私より小がらだった。 二人とも同じ萬の万で、職場も同じ採鉱だったので、仲が好かった。 マンはンマ(馬)に通じるのか、よろけ坂(とはまだいわなかった)をのぼるときは、 前足だ、後ろ足だとにぎやかだった。 たまにどっちかいないと、仲間が、前足どうした?とか、後ろ足どうしたとか、 少しおくれると、ホッケンマ頑張れ、とワイワイ、ガヤガヤ、何にせ二千人も三千人も働いていた頃だ、 朝の通勤道路は活気の溢れた行列だった。 先にもいったとおり、その頃はよろけ坂とはいわなかったと思う。 私達が学校に通っていた頃(昭和十年)は、病院の坂といっていた。 坂の途中に鉱山の病院があった。ダム決潰(昭和十一年)後、病院が軽井沢に移った(昭和十四年)後も 病院の坂だった。 ご存知のように、「よろけ」は昔からあったが、職業病として認められたのは昭和三十五年に 塵肺法ができてからであったろうか。その前はどうであったか、私はわからない。 とにかくこの法律ができたことによって、塵肺検診が義務づけられたのではなかったろうか。 その後法律が改正されて珪肺法?となり、病名も珪肺と改められたが、 何年のことであったか記憶にない。 とにか病状の区分は、基本的には変わらなかったと思う。 ということで、軽い方から一・二・三・四の四段階であった。三になると職場転換しなければ (させなければ)ならなかった。四になると公傷扱いとなり、休業して手当てがもらえた。 この手当は、退職しても死ぬまでもらうことができた。 二であっても、肺結核になると、合併症といって四に格上げされた。 珪肺の検診はには、何種類かの方法があったが、私は当事者でもないのでおぼえていないが、 その一つにマスクをかけてリュックサックのような袋をせおい、 踏み台(昔どこの家にもあった棚の物を取ったり上げたりするに使った。たいてい二段だと思ったが、 一段目と二段目の間を丸くり抜いてネコ箱にしていた。ネコの踏み台であったか、 ネコのなんとかといったような気もするが、おぼえている人は教えて下さい)を一・二・三、 一・二・三と検査士の声に合せて、一定の時間上り下りする。 肺の機能が落ちてくると、すぐ息が切れて、ゼイゼイ息を切らしながら頑張っているが、 呼吸する力が弱いので、袋に息がたまらない。その量が判定の一つの条件になる。 つまり、よろけ坂を上るとき、ゼイゼイ息を切らすようになると、お前もよろけたナ、といわれる。 あの坂は、一つの健康のバロメーターであったろう。 いつの頃から病院の坂がよろけ坂になったか、はっきりしない。 たゞ昭和三十五年の塵肺法のできたあたりが一つの境目だろうか……。 よろけ坂という言葉が文書に出てくるはじめは(と私が思うのは)、昭和三十八年一月一日付けで出した 弘報尾去沢二百号記念号の付録についた「鉱山のしおり」の中の尾去沢略史の 昭和十四年の項に「歩行者専用道路(よろけ坂)中腹にあった鉱山病院が現在地に新築移転云々」とあり、 弘報尾去沢をひっり返して見てみれば、もっと前から使われているかもしれない。 ところで、年とってよろけた馬をホッケンマといった。ホッケとはどういう意味だと思ったら、 わからなくなった。 塩ボッケなら、魚でわかるが、「花輪弁、今・昔」という本を見たが、ホッケ馬は出てこない。 そこで「秋田のことば」という本を見たらあった。「ホッケ」老いたる牛馬。 「惚ける」の古い形は「ほほける(ほほく)」であった。 「老耄(ろうもう)した馬」を「ほっけんま」、あるいはそれを下略した「ほっけ」で表現した。 〔全国分布〕、という。 とにかの戦後いつの間にか誰いうとなく、よろけ坂というようになったろう。 俺達は何年頃はシャベッていたと、記憶のある方は教えて下さい。 この坂の上り口右側に大きい桂の枯木が二本並んで立っていたが、道路を改修 (昭和三十五年前後)するとき、切られてしまった。 坂の上の方左側斜面に田打桜(コブシ)の古木が二・三本あり、 春になると白い花をいっぱい咲かせていたが、枯れてしまった。 今は木も大きくなり、ヤブになって歩けなくなってしまった。 よろけ坂にも歴史がある。 平成二十二年七月二十日 (終り) |