GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(4)

 さて、ナンコの話しからノラリクラリのコンニャクの話しになってしまったが、 昔々の私のナンコ論は、マユツバものとして、 今度はもう少し科学的?に現代版ナンコの話しということにする(マユにツバをつけるのは自由だが)。
 それは今から二十年前になると思うが、 三ツ矢沢の中新田に町会議員もした奈良菊弥さんという大元老がいた。 その奈良さんが山神社の氏子総代をしていた頃の話し。 それは何年の年の春か秋かも忘れたが、神さまを拝んだ後の直会のとき、 多分話しは尾去沢でいつまで馬(馬鉱車)で鉱石を運んでいたろう、という話しになって  昔の坑道は狭くて低かった。とうてい馬などは入れない。 それが大きくなるのは明治も大分たってからではないだろうか。 ノーベルがダイナマイトを発明したのが一八六六年、明治になる二年前だ。 尾去沢で、はじめて削岩機らしいものが使われたのは、明治十二年頃といわれ、 それから次第に発破もかけるようになって、坑道も徐々に大きくなって、馬も入れるようになったろう。 奈良さんがいうには、中新田の川徳さん(川上徳次郎?)が馬を五、六頭もっていて、 坑内の鉱石運搬をやっていた、という。 奈良さんは明治三十四、五年頃の生れだと思うから、 それは明治の終り頃から大正、昭和のはじめ頃のことだろう。それはそれとして奈良さん曰く、 「馬には骨軟病というのがあって、ヒザの関節がダメになると使いものにならないから、 どういういゝ方をしたか思い出せないが、要するに最後のご奉公に人間さまに肉を献上した。 それで骨軟病の馬では具合が悪いので、さかさにして軟骨の馬とか軟骨の肉とかいって、 それがナンコツからナンコになったという話しだ。 それはそれとして三ツ矢沢の人達は、馬は農耕馬として大事にしていたので、馬肉は食べなかった。 それで馬がケガや病気で死ぬと、下タ沢と下新田の中間あたりの道路の五米くらい上の平地に 馬捨場というのがあって、そこに埋めていた。 戦後もしばらくして、三ツ矢沢の方でも馬をおかなくなってからの話しだが、 そのあたりに春になると、いゝワラビが生えた(うまかったかって?)。 それは……関係ないとして、本当に骨軟病というのがあるかと思って、 先日大館の獣医さんに電話で聞いてみたら、骨軟病(症)というのはあるという。 さすが元老物知りだ。今年は十七回忌だというから、 謹んで墓前に博士号を進呈しなければならないと思ったのはいゝとして、 もう一つ馬の効用の話しがあった。
 
 それはアシ毛の馬の糞が猩紅熱(法律で定められた病気の一つ、 これにかゝると隔離しなければならなかった)に効くという話しだ。 ほかのウマでは駄目だ。アシ毛(私にはどれがアシ毛だかわからないが) の馬の糞でないと効かないという。 とにかく急に高熱が出るので、熱を下げるのが急務だ。 下新田の子供がその病気にかゝったとき、そのアシ毛の馬の糞をせんじて、 飲ませて直してやったととう。 この話し信じるか信じないかはおまかせするとして、 法廷伝染病などという言葉は最近ほとんど聞くこともなくなったが、 腸チフス、パラチフス、赤痢(疫痢)、コレラ、ジフテリア、猩紅熱、 痘瘡、発疹チフス、ペスト、流役性脳脊髄膜炎、日本脳炎の十一種。
 
 ということでまた馬鉱車にもどるわけですが、 尾去沢の坑内で普通使っていた鉄板製の四角い鉱車は、 ご存知のように一トン鉱車といって、鉱石をいっばいつめると、一トンとして計算した。 運搬夫(車夫)の人達が一日に何車詰めるかが、仕事(請負)の目安となった。 一方馬鉱車は、電車で鉱石が運ばれるようになると使われなくなったようだが、 尾去沢と一所に閉山した小真木の方では、閉山まで一部使われていたようで、 それは木製で普通の鉱車より少し小さいので、七掛けといって、一車〇.七トンで 計算していたという。尾去沢の馬鉱車も同じような大きさだったかもしれない。
 
 〇.七で思い出したが、尾去沢鉱山が閉山する頃の採算品位は〇.七%だったと思う。 何年の年だったか忘れたが、その頃銅価がどんどん下ってゆく。 竹原社長なげいて曰く「鉱石一トン掘ったって、市日で売っている大根一本より安いんだ」と。 尾去沢鉱山は、本当に骨と皮になるまで私達の為に頑張ってくれた。 閉山後も観光鉱山として日本の産業遺産として今なお地域の為に頑張ってくれている。 私達は、千三百年という鉱山の歴史は誇っても、尾去沢鉱山よ有難うという 感謝の視点が抜けているのではないだろうか。 今年は閉山して三十二年、この鉱山に働き一所に暮らしてきた私達も間もなくいなくなるだろう。 それは自然の理としても、尾去沢鉱山よ有難う、という感謝の日があってもいゝじゃないか、 私はありたいと思う。 五月三十一日の閉山した日は、人間でいえば命日だ、となれば今年は尾去沢鉱山の 三十三回忌ということになる。 昨年秋、私達鉱山の地質課に働いていた県外にいる人たちから、 もう一度尾去沢に行ってみたいという話しが出て、 私達地元にいる人達で、いつがいゝかと話し合ったとき、 春だ秋だに関係なく、尾去沢鉱山にとって意義のある日がいゝんじゃないかということで、 閉山した五月三十一日と決めましたが、 そのときは三十三回忌なんていうことは考えていませんでしたが。 その日は慰霊碑の前に三十三回忌という旗(供養塔)を立てるほどではないとしても、 花を飾って線香の一本も上げてもらい、レストハウスの方には 「尾去沢鉱山の日」(私が勝手に決めるわけにはいかないが)という旗と、 「尾去沢鉱山伝統食文化元祖なんこかやき」の旗を立てゝ、 「なんこかやき」を一皿付けてもらいたいものだ、などと思っている。

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