山の枯木のつぶやき(4) |
さて、また楠公論にもどるわけですが、楠正成が湊川で戦死したのが延元元年(1336)の五月、
それから十年程して息子の正行が父の敵といったかどうかは知らないが、
その十三回忌を期して挙兵、敗れて四条畷で自決したのが正平三年(1348)一月、
時に二十三才といわれている。
その残党が奥州に落ちてきて尾去沢鉱山にかくれ住んだ、といえばこっちまでくるか、
と思うだろうがそうでもない。
大体平泉の藤原氏が奥大道とかいわれる道を整備して、尾去沢をはじめ鹿角の金をゴッそり持って行って、
中尊寺だ金色堂だ、といわゆる平泉の黄金文化を築いたのは、一一〇〇年代だ
(金色堂のできたのは1124年)。
藤原氏が滅んだのは(四代泰衡が死んだ)一一八九年というから、
正成が戦死したのはそれからおよそ一五〇年くらい後となる。
藤原氏までさかのぼらなくても、正成の仲間だった北畠親房の長男顕家が
十六才で陸奥守となって下向してきたのが元弘三年(1333)で、正成の戦死より三年前だ。
彼は青森の浪岡あたりを本拠として東北地方で頑張っていた。
となれば、楠の残党がそれを頼って(かどうかはわからないが)落ちてきて、
尾去沢にかくれすんだとしてもおかしくない。 その尾去沢にすんだ楠の残党が、御大将の昔を偲んでひそかに楠公祭りをやっていた。 多分戦死した五月二十五日だろう。それに一月五日に自決した小楠公も併せて、 それには馬肉かやきを供えて、大事な馬をも食わなければならなかった昔を偲んでいた。 それを見た我々の先祖は、何しているんだと聞くと、世は尊氏一族が権勢を振るっている時代だ。 うかつなことはいえない。そこで彼等はさりげな、「ナンコウかやき」をやっているんだという。 見れば馬肉を煮ている。ハハー、馬肉のことをナンコウとゆうんだと思った。 それがだんだんちぢんでナンコになった。 というのが、私の補足説明だ(ほんとにするなよ)。 |