さて、先の勢沢の話しにもどるが、キオイ沢かキヨイ沢かといったが、鹿角の民
俗を集めた本の中で鈴木勝見さんは、キヨイ沢といっている。杉山先生の本もキヨ
イ沢とカナをふっているが、そのよりどころは知らない。ただ私は方言というか、
ここの言葉を書き表すのは難しいと思っている。元は同じでも、一寸したシャベリ
方の違いによって、聞く方にはヨにもオにもなると思うので、どっちが正しいかで
はなくて、どっちも正しいだろうと思っている。 これとは少し違うが、蟹沢をガンジャという。大葛はオオクジョで、葛原はクジ ョワラだ。私が子供の頃、兎に食せたのは葛の葉ではなくてクジョッパだ。こうな れば秋の七草も色あせるが、下タ沢にはいっぱいあった。干して冬の兎のエサにす るため、ツルからあの葉をもいで束にした。我が家の前は、切り立つように崖が急 だったので、足をすべらしすべらし落ちそうになっては、ツルにつかまり大変だっ た。 話しはクジョッパではなく勢沢のことだが、私達が下タ沢の上みに行くと、正面 に山があって、行き止りになり、左側に行けば元山、右側に行けばタカチの坂を上 がって新通洞や田郡に行った。その新通洞の坑口に左側に横に細い山道があった。 少し行くと下タ沢の左右に分れる山の峯に出るようだったが、一寸行ってみただけ で、その先に行ったてみたことはなかった。この道は直すぐ峯伝いか、少し斜面を 曲りながら下タ沢に下りていたのかもしれない。タカチの坂はいつできたか知らな いが、もしかしたら昔は、この山道を通って田郡に行っていたのかもしれない。附 図1をみると、田郡のお寺の少し手前から、稲荷さんの所を通って下タ沢に下りてく る道があるが、この道がそうかもしれない。 松浦武四郎が田郡から勢沢にくるには、この道をきたのかと迷ってみたが、途中 に本鋪、上磐間歩、松コマブと三つあるといっているところから、この図面を見な がら考えると、田郡のお寺のあたりから、横八道を通って谷に出て上(元山)に行 かないで、下ってきたのかもしれない。この図面には松子鋪とか本鋪というのがあ る。私達が元山を通ってカゲに行くときと通った道は、左側の山裾の崖を横切って おり、少し下の下タ沢のあたりに熊谷鋪がみえていたと思う。 要するに私が勝手に下タ沢全体を勢沢にしてしまったが、千荷平とか下タ沢本番、 金場とか少し広くなっている、あのあたりを勢沢といったろうか。それにしても、 田郡沢より峡中狭くして、一軒の家とても平家なく皆山の腹を刳り、その間に建て、 となれば、やはり下タ沢のことのように思われる。そして、次に図するが如く、と いっているが、その図があれば、もう少し見当がつくと思うが、いくらその風景又 田郡沢に一倍せり、とほめられても。ただ獅子沢大権現御伝記にも大森山のところ で、下タ沢、勢沢に走り、とチャンと分けて書いているので、どこかに境界があっ たと思うが、鈴木さん教えて下さいといっても、去年亡くなったし、照井富衛さ ん達が何にかいっているかもしれないので、後で「花輪尾去沢の民俗」などという 本をゆっくり見直してみようと思っている。 「拡大写真」 |