枝豆を食ったり、お月さんをみたりしていると盆おどりを思い出す。昔はお盆と
いえば盆おどりが盛んだった。今は尾去沢でも、1〜2ケ所よりやっていないようだ。
私はもともと踊りは苦手だったので、今もおどれない。それはそれでいいとして、
なんで大の坂といい、甚句というのか、唄の文句を聞いていてもさっぱりわからな
い。へらもしゃくしも手につかぬ、といわれてもナーと。それが「鹿角のあゆみ」
を見ていて、次のような記事をみつけた(この本は昭和44年の刊行)。 それは、毛馬内の盆踊りの説明の後、毛馬内公民館田中亮太郎氏の調書として、 鎌田露山氏は、大ノ坂は桜庭氏の毛馬内来任と共に伝わり、甚句は兵庫に発生し 海運関係で日本海沿岸を伝わり、当地に及んだものだろう、といっていると。豊口 和湖氏は、甚句大ノ坂ともに、金山関係で佐渡から白根(今の小真木)に伝わった ものとみていると。そして「陣後おどり」として、永禄十年(1567)秋田城之介が 鹿角に攻めてきて、殆ど全部占領しそうになったとき、南部領主信直(南部家26 代、中興の祖といわれる)がこれを迎え討って、領外へ駆逐したとき、毛馬内で凱 旋式をやって、遊興踊りなどを催して大いに将卒をねぎらった。そのときの踊りを 「陣後踊り」「陣後唄」と称したが、何時の頃からか「甚句」となり「じんこ」 と俗称するようになった。一説に、この静かな踊りは、戦国時代に城が敵軍に包囲 された時、城内で踊ったためであるというが、今行われる歌詞は、余り戦いには関 係ないようだ。という。 「大ノ坂」は、陣後歌の前奏曲として唄われたものだ。昭和のはじめまでは、太鼓 に合せて歌ったものだ。というが、今でも尾去沢では、大ノ坂に合せて唄い、甚句 踊りに入ると、太鼓はやめている。 ○ここは大ノ坂 七曲り 中の曲り目で 日を暮らす この歌詞は、伝承によれば、死者の霊があの世に一人で行く途中の寂しさを、周 囲の人たちが仏のために、手向けとして歌ったものでるという。この大ノ坂が必ず 陣後踊りの前になされることは、文献にはないが、明暦3年(1657)毛馬内領主桜庭 光英が、現在の岩手県宮古市から移封された時から、この踊りがあったと伝承され ている。という。 |