下タ沢会によせて(覚書)

大区小区制から10ケ町村誕生まで(明治22年)

七小区(続き)
 小平  − 平元村(明治9年)
 小枝指 −  〃
 新斗米 −  〃
 寺坂  −  〃
 
八小区
 柴内  − 柴内村(明治9年)
 乳牛  −  〃
 高市  −  〃
 上台  −  〃
 鶴田  −  〃   − 以上、柴平村(明治22年)
 
 花輪  − 花輪村(明治10年)
 鏡田  −  〃
 狐平  −  〃
 高屋  −  〃
 花軒田 −  〃
 甘蕗  −  〃
 久保田 −  〃   − 以上、花輪町(明治22年)
 
 大里  − 宮麓村(明治9年)
 小豆沢 −  〃
 湯瀬  −  〃
 
 谷内  − 長谷川村(明治9年)
 長嶺  −  〃
 川部  −  〃   − 以上、宮川村(明治22年)
 
 三ケ田 − 長井田村(明治9年)
 夏井  −  〃
 長牛  −  〃
 白欠  −  〃
 長内  −  〃
 
九小区
 松館  − 松谷村(明治9年)
 石鳥谷 −  〃   − 以上、曙村(明治22年)
 
 尾去沢鉱山
 三ツ矢沢
 尾去   →    − 以上、尾去沢村(明治22年)
 
 この表の村落名は鹿角市史の「明治七年以降の小区区分表」及び同史の「明治 期の町村合併(秋田県史資料・大正昭和期編から)」によっている。
 したがって小区々分表は、鹿角両通り68ケ村+尾去沢・小阪鉱山の70ケ村になって いるが、後者の表には更に曲谷地・根市戸・五軒屋・申ケ野及び長沢の5ケ村が入っ ており、逆に両通り68ケ村の中の赤坂がぬけて、74ケ村になっている。
 これらの村落は、両通り時代は、どこかの村に含まれていたものと思われるが、 その土地に住んでいる人たちは別として私にはわからない。
 なお後者の小区々分は花輪・八幡平・尾去沢等が九小区、八小区はわずか柴内・乳牛 ・高市・上台・鶴田の5ケ村となっており、他は七小区となっているので、この区分は、 いつどうして決ったかわからないので、前者区分と混乱するので(私の頭も)、こ れにはふれないことにする。
 
 こうして鹿角は、明治22年10ケ町村になったわけですが、これは明治21年4月25日 政府は地方行政の単位として、市・町・村を整備する市制および町村制を公布した (翌年4月1日より順次実施)。これにより、市町村に組織権、自治立法権、自治行 政権、自治財産権を認める、画期的な地方制度であった、という。市町村は自治体 として確認され、条例、規則の制定権が与えられると共に、市会、町村会が設置さ れた。
 
 この頃の人口は、
 明治12年 尾去沢  戸数 667戸 人口 3,767人
      鹿角合計 〃 4,861  〃 26,891
 〃 22年 尾去沢  〃  606  〃  3,811
      鹿角合計 〃 5,658  〃 30,731

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