さて、長々とどっちに転んでもいいような話しを書いてきたが、人間も仏さんに
なれば終りになるように、この話しも仏さんの話しになったので、そろそろ終りと
するが、私達の心の中に、特に若い頃に大きな影響をおよぼし、今なお重い比重を
占める靖国神社は、いつどのようにして建てられ、どんな経緯を経てきたのだろう
か、招魂社とともに簡単にたどってみることにする。 ○靖国神社 靖国神社の創建は、東京招魂社として明治2年6月29日九段坂の上の地(現在千代 田区北3丁目1番1号)の仮本殿において、戊辰の役の殉難者3,588柱を合祀して鎮座 祭を斎行したことにはじまる。という。 以後戦争などの国事に殉じた者2百50余万の霊を合祀している。明治12年 (1879)靖国神社と改称した。 もう少しくわしく合祀した人の数を見てみると、幕末から第一次世界大戦まで 12万5千余は柱を数十回にわたり順次合祀、また、満州事変、支那事変、大東亜戦争 の戦死者は昭和20年4月まで25万1千余柱、残る210万近い戦死者は終戦後次々に 祀られ、今秋(平成7年)の例大祭で120回目をむかえるという。 さてこの250万余といわれる人達は、陸海軍別にみてみると、 明治2年から平成6年までの累計 2,466,286人 内訳 陸軍 1,859,236人、海軍 504,597人、その他 102,363人、合計 2,466,196人 ※上の累計より、内訳の合計が90人少ないが、単なる資料の取り方にミスか、私 にはわからない。 なお、終戦後210万近い戦死者といっているが、昭和21年から平成6年までに合祀 された年度毎の数の合計は2,090,963人となる(広辞苑・歴史読本(月刊・平成7年版 などから))。 ○招魂社 明治元年6月2日、東征大総督の有栖川熾仁親王が江戸城西丸広場(江戸城開城は 3月14日)において、旧幕府軍追討のため、関東、奥州の各地で戦没した官軍将兵の 招魂祭を執行、また同年5月10日に太政官は幕末以来の国事殉難者および戊辰の役で の殉難者の霊を京都東山に祭祀するよう布告した(歴史読本)。 のはいいとして、問題は(と私は思ったのは)、慶応から明治に改元されたのは 9月8日。5月10日だろうと6月2日だろうと、まだ慶応4年である。とそんなことにめ くじら立てることもないが、こういうときは西暦が便利である。1868年でいい、と いうことは慶応といおうが明治といおうがかまわない(という暗黙の了解があるの だろうか)として、戊辰戦争はまだ途中、終っていないのに戊辰の役の殉難者とい うこと、と思ったが途中だろうと戦死者のいたことはたしかだろうから、それはそ れでいいか、と思ったが、どこかすっきりしない(となれば、太政官布告を見る よりないだろうが、こういうことを称して枝葉末節とこだわる、ということだろう)。 何にかないかと思ったら、30年前の百科事典に「招魂社」というのがあった。 「1868年(明治1年)明治天皇の内意によって1853年(嘉永6年、この年はペリー が浦賀にきた年、いわゆる黒船)以後明治維新の国難に殉じた人々の霊を祭るため、 京都の東山に神祠をたてて招魂場としたのが起原である(5月10日の太政官布告のこ とか)。これにならって各藩も招魂場をたてたが、1875年(明治8年)一般にこれを 招魂社といわせた。1939年(昭和14年)これらを護国神社と改称した。」 ということで招魂社の話しは終りとするが、現在秋田県にも護国神社はある。秋 田県の護国神社は、秋田県遺族会の四十年史にある由緒略記によれば、 ○明治元年十月、秋田藩主佐竹義堯侯によって高清水丘に工事が起され、太政官よ り金壱千両下附、明治二年八月二十八日に創建成り招魂社と称し、戊辰戦役の「み たま」を祀ったことに始まり、爾来秋田県出身戦没者の「みたま」を合祀鎮斎す (一般に招魂社といわせたのが明治8年というが、秋田は最初から招魂社といったの だろうか)。 ○明治三十二年、政府より社殿再築補助費が下附され、社殿を秋田市佐竹城跡(現 在の千秋公園本丸)に建築し、官祭秋田招魂社と称した(官祭:広辞苑によると、 @神祇官が行う祭祀、A明治以後、国家神道が行われた時、官・国幣社の祭)。 ○昭和十四年三月、秋田県護国神社と改称した(内務大臣指定)。 ○昭和十五年、旧社地(現在地)の高清水丘に本殿流造の壮麗な社殿を造営した (流造(ながれづくり):神社建築の一様式)。 こうして昭和二十二年には「伊邪那岐命・伊邪那美命」も併せ祀って「高清水宮」 と改称したというが、昭和二十七年旧に復し秋田県護国神社と改称したという。 この後平成二年に火をもらって全焼、平成四年再建という。 |