下タ沢会によせて(覚書)

桜山の忠魂碑

 そして、「明治42年、日清、日露の戦没者の霊を慰めるため、在郷軍人会が桜山 に建碑、毎年5月10日桜山神社大例祭に合わせ、戊辰戦争を含め、終戦に至るまでの 遺霊祭を行っている。」という。十二所、扇田方面の忠魂碑にふれて、
 「近隣の忠魂碑を外観するに、大館は大館城の防衛線としての激戦地天王山に近 い長根山に、十二所は茂木館の鬼門に建つ神明社境内に、扇田は二度攻防戦を展開 した神明社地内にそれぞれ建碑している。この様はいずれも戊辰戦争の激戦地に建 てて、戦いを偲び、追善供養をしたということだろうが、鹿角人にとって、辛い印 象でしかない。
 この三基の忠魂碑は、いずれも戊辰戦争からの「忠魂碑」で、墓碑に至っては正 面の姓名の上に必ず「官軍」に二字が彫られている。
 鹿角は先に述べた様に、戊辰戦争戦没者は「招魂碑」、日清戦争以降は「忠魂碑」 となっており、この招魂、忠魂という言葉の違いにこそ、鹿角の賊軍と呼ばれてき た悔しさが凝縮されているのである。」といっている。

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