下タ沢会によせて(覚書)

なんの縁で長泉寺に

 今年に入って、戊辰戦争のことを書いていた時に、先にも書いたように、鹿角市 史は恩徳寺に収容された遺体は供養のあと、それぞれの菩提寺に送られたとして、 4人の例をあげて、その人の戒名、菩提寺、名前を書いているが、その中に顕道良忠 居士、長泉手江葬、荒木田政次郎源保定、とあった。これだと思ったが、この人 は鹿角の戦死者の中にはないので、南部藩直属の士だったのだろう。
 それにしても何んで長泉寺かと思ったがわからない。盛岡藩士なら、岩手県の方 のお寺だろうと思うし、盛岡藩士にはなっているが、長泉寺が菩提寺だったのか。
 
 今、長泉寺の住職さんは、本山(鶴見の総持寺)のお勤めに行っているので聞 けないが、大正5年かにお寺が全焼して書類なども焼けたとかいうから、わからない かもしれない、おじいさんのお尚さんは、明治時代の人だから、何にか聞いていた かもしれないが。
 とにかくはじめの頃は、誰か供養していたかもしれないが、あれから130年余、い つの間にか無縁となっていたかもしれない。私がぶっつかりそうになったのは、私 はここにいるよ、と私の足を引っぱったのもしれない。今年は戊辰戦争の135回忌、 お盆には住職さんも忙しいだろうから、秋の彼岸にでも帰ってこられたときに、供 養していただきたいものだと思った。
 
 今年になって(6月下旬)、外に聞きたいこともあったので、盛岡の岩手県立図書 館に電話した。そのときこの荒木田政次郎のことも聞いてみた。翌日電話がきた。 その遺族(子孫)は盛岡に在住しており、現在は七代目定世とかいう人で、菩提寺 は盛岡の久昌寺で、墓石も確認できる、とのことであった。私は仏さんに足を引張 られたと思ったが、心配することはなかった。何にかの縁で一たん長泉寺に仮埋葬 して供養?の墓も建てたが、いつかの時代に、盛岡の菩提寺に移したのかもしれな い。

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