可禄の戦死した(9月2日)板沢合戦の戦死者は全部で11人で、可禄の鎗持も戦死
している。出陣日記の戦死した!人の名前の最後から二番目に「普代村御百姓左蔵可
禄の鎗持也」と記されている。その戦死の模様、その後どうなったかなどは何も書
かれていないので、わからないが、可禄は「鎗を以突入れたれハ」とあるから、そ
れまで鎗を持って主人に従っていたのだろうか。百姓といっても武家奉公、いざ出
陣ともなれば、身を守るための小刀ぐらいは腰に差していたかもしれない。鎗を取
って奮戦する主人を守って、及ばずながらと腰の小刀を抜いて戦ったのだろうか。
出陣日記にはこの間の消息は、何も伝えていないが、百姓生れの律義者は、主人を
守って必死に頑張ったろう。どういう縁で可禄の従僕になったかは知らないが、侍
なら侍の宿命としてあきらめるとしても、こうした人達こそあわれである。 今でもそうだが、軍人恩給なども階級の上の方ほど多くの額をもらっているよう だ。この戦争の時も戦死した者は、お互いに丁重に扱ったようだが、遺族に下され た手当も身分によって差があったようで、又(獣偏(ケモノヘン)+又、マタギ)、 農兵(武士と一緒に桜山神社にまつられている)、その下の人夫よりも更に下だっ たようだ。死傷者に対する御手当の支給基準を書いたものの、一番最後の方に 「一、陪臣の儀は討死の者へ御米弐駄を御手当のため下さることは、前々の通りで ある。帯刀しない従僕で討死の者へは、御米を人夫(米壱駄)に準じて下され、主 人又は親類を呼び出して軍事掛目付から趣意を申渡す」とある(鹿角市史)。 左蔵は、この帯刀しない従僕の部類に入っているのかもしれない。生命と引きか えが、米二俵では割に合ない話しだが、一面また今次大戦でも、遺骨が異国の原野 に野ざらしになったり、海の底に沈んで帰らなかった人のことを思えば、米二俵背 負ってふる里に帰って行ったであろう、可禄の鎗持の左蔵は、以って冥すべし、と いうことか。 ○一駄:馬一頭につけた荷物のこと。私達が子供の頃は馬一頭に米俵だと2俵つけて いたと思うから、戊辰戦争の頃もそうだったろうということで、一駄とは米2俵 (1俵4斗入 = 60K)ということか。 ○普代村(ふだいむら):岩手県下閉伊郡。太平海岸の方にあり、北緯40°線がこ こからはじまると記念のモニュメントがあった(10年くらい前に行ったことがあ る)。ここはいわゆる三陸海岸で、黒崎とか少し下って北山崎など景勝の地がある。 |