また余談になるが、田郡の思いでの中で、同級生の川村初男さんが敬助先生の続
きに「又、理科が好きで青大将を手に巻いたり、箱に飼ったりしていた小山先生、
軍事教練も3・4年の頃から習いました」といっている。いつだったか、この小山先生
が青大将に紙でほほかむり(目がみえないように、頭をつつんで)させて、職員室
にはなして、大さわぎしたり、ポケットに入れて本校に持って行ったこともあった
(このポケットに入れたのが逃げ出したのであったかもしれない)。植物採集をや
っていた。高等科になってからであったか、何んどか山に連れていってもらった。
それはいつどこの山であったか忘れたが(上新田の方だったろうか)、「これはシ
ラネアオイという花だ、日本の白根山(群馬県)で初めて発見されたので、その名
がある」と教えてもらった。その後どんな葉っぱだったか、どんな花だったか、す
っかり忘れてしまったが、その名前だけはおぼえてていた。鉱山が閉山になる前年
であったか、小又川発電所に行ったとき、草むらや土手にきれいに咲いている花が
あった。あれは何んという花だ、と聞いたら、白根葵(シラネアオイ)だという。
こんな花であったかと、一株もらってきた。毎年よく咲いていたが、5〜6年前場所
を移したらもう消えてしまった。小山先生も亡くなったかもしれない。
この小山先生に、新聞紙にはさんで標本をつくることを教えてもらったが、まと もに作ったことはなかった。 戦後シベリアに行ったとき、春になると色々な草が出てくる。季節は1カ月ぐらい ずれるが、ここにあるものと同じようなものが多かった。幸い白いノートを1冊持っ ていたので、それに取って挟めた。夏になり秋になると花が咲く、こんな花が咲く んであったかと、春の草と取りかえた。色は変ってしまうが、どんなものだったか はわかる。家に帰ったら、話しの種にしようと少しずつ集めた。百六・七十種もあっ たろうか。ところが時々ロシアの兵隊による植物検査がある。その都度なんとか見 つからないようにかくしていたが、それは帰ってくる年(昭和23年)の秋頃であっ たか、不意に検査があって、かくす間がなかった。私にとっては宝物でも、彼等に とってはただのガラクタだ。返えして下さい、とよっぽどいおうと思ったが、ここ であらぬ嫌疑をかけられて、帰えれなくなったら元も子もない、とあきらめた(特 に書いたものに対しては、きびしかったと思う。私のノートには何んにも書いてい なかったが、雑誌の紙のようなものを細く切って、それで標本?を押さえてい た。)。 それにしても、シベリアのワラビは、どうしてもニガミがとれなかった。ボンナ もニガかった。やっぱり寒いところのものは、ニガミによって自己防衛をしている のかもしれない。 話しはまた横道にそれてしまったが、川村さんが軍事教練を三・四年から習ったと いっているが、そんなことはすっかり忘れてしまった。今青年学校の教練のことを 書いていて、5年生になると、6年生といっしょに運動会のときに軍事教練のまね事 (どんな風にやったか忘れた)のような事を小山先生の指揮でやり、父兄からよく できた、勇ましい、とほめられて拍手をもらったことを思い出した。学校には木銃 (銃剣術のけい古をする)があったと思うから、それをかついでやったと思う。私 達の背丈の倍近くあったと思うから、正にオモチャの兵隊、テッポウかついだ兵隊 さんで、ススメ・ススメ・ヘイタイ・ススメであったかもしれない。しかしそういうこ とをやったということは、山かげの人達の持つ、負けん気というか、尚武の気風と いったものであったかもしれない。というのはいいすぎとしても、戦後資本家対労 働者という意識が強く、何んでも会社でやれ、という風潮の中に私達自身もくらし てきたので、それはそれとして。明治以来の学校を中心とした山かげの流れをみて みると、学校をつくるにせよ、移転するにせよ、また運動場をつくるにも、運動会 などの行事をやるにも、自分達の力で出来ることは自分達でやってきた。この不屈 の精神というか、気概というか、郷土愛というか、この心はいつまでも失いたくな いものだし、大事にしていきたい。少し大げさないい方になったが、今、多くの人 がふる里を離れて暮らしている。それは、そうせざるを得ない時代の移り変りでは あるが、どこにいようとも、ふる里を思う心はなくしたくないもだと思う。 |