下タ沢会によせて(覚書)

内藤湖南博士のこと − 又新学校(本校)と初代校長の碑、田郡の学校の吊り鐘 −

○斎藤ラッパ先生というのは聞いたことはあるが、明治時代のことだろうと思って いた。今、渡部金作さん(大正7年入学)の思いでに出てくるので、大正7年にいた ことは確かとしても、その前後が分からない。ラッパ先生がいなくなって、半鐘に 切り代ったのだろうか、となれば一本チャーさんとの関係はどうなるのか、そもそ もあの半鐘はどこから来たのか、元山の大火(大正14年4月)のときに、焼け残った 火の見楼の半鐘だろうか。

○その田郡の学校に吊り下げられていた半鐘はその後どうなったろうか、戦時中の 金属回収に名誉の応召したろうか、もしそうだとしたら、その後何によって時間を 知らせていたろうか、それとも命長らえて田郡の学校の解体と運命を共にしたろう か、新しい学校で余生を送ったろうか。

 と思って2〜3聞いてみたが、よくわからない。ただ高瀬忠浩さんの話しによると、 5年か6年かのときに、小使室の後ろの薪小屋で、義弥先生が立ち合って、チャーさ んがこわしているのを見た記憶があるといっていたが、戦時中金属の供出が叫ばれ るようになるのは、昭和14年9月1日、興亜奉公日が制定されてからのようであり (とはいえないが、忘れてしまった。※これは14年2月16日、商工省が鉄製不急の回 収を開始、郵便ポスト、ベンチ、街路灯、広告塔、灰皿、火鉢など15品目としたと きからだと思う。)、昭和14年といえば忠浩さんは6年生なので、あり得ることだと 思う。本格的?に金属回収令が発動されたのは、昭和17年5月で、これによって政府 は、造船資源の鉄、銅を回収するため、指定施設、神社、寺院、協会などの鉄銅製 品の回収が実施され、貴重な美術品、由緒ある品も回収の対象とされ、寺の梵鐘も 回収の憂き目を見たという。
 昭和14年の時は、使わない屑を出せだったろうが、17年のときは、大事な宝物も 出せとなったようだ。明治6年の新暦切替以来、花輪の高台(南館)にあって、時を 告げていた、いわゆる鐘突き堂の鐘(長年寺所有)も徴用されたが、扇田のどこか の倉庫に運よく無事でいるのを発見され、新憲法発布を記念に復活されていたが、 先年鐘を突く人が老齢のため出来なくなり、廃止され、鐘は長年寺にもどったよう だが、まして田郡の学校の鐘など真先に持って行かれたのでは、と思う。

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