○岩城慶二さん(思い出) (続き) とこゝで事変と戦争はどう違いか、と思った。更めて聞かれるとわかっているよ うでわからない。そこで辞典をみると。簡単にいうと、事変→国家間の宣戦布告な き戦争をいう。戦争→武力による国家間の闘争。そこで宣戦布告、まず宣戦とは→ 相手国と戦争状態に入ったことの一方的意志表示。そこで布告となれば→他国に対 し戦争に訴えることを宣言・公布すること。 となれば国内の戦さは、戦争とはいわないかと思った(歴史上には、変とか乱と か役とかいろいろあるが)が、近いところでは明治10年の西南戦争があった。それ より少し前に戊辰戦争があった(戊辰戦争→明治元年というよりも慶応4年1月3日 鳥羽伏見の戦いで始まり、翌年5月18日函館五稜郭に立てこもる旧幕軍の無条件降 伏で終る。新政府と旧幕府側との約1年半のおよぶ戦いの総称。私達は戊辰戦争 (その年は、ボシン = つちのえたつ年だったので、そういうようだ)といえば、 南部と秋田の戦いぐらいしか思っていなかったが、このとき我が金掘り部隊も出動 している。)。 ということは、外国相手は別として、国内の場合、どこに乱とか変とかの線を引 くのか、考えたってわからないから、それは専門家にまかせるとして、またもとの 話しにもどることにする。 岩城さんがいう「国家総動員法(昭和13年4月1日公布、昭和20年廃止)」は、こ れは「戦時(戦争に準ずべき事変をふくむ)に際し、国防目的達成のため、国の全 力を最も有効に発揮せしむる様、人的及物的資源を統制運用する」ための強大な権 限を政府に与えるため、公布されたという(こうしてなんでもかんでも統制管理・配 給といった時代へ入って行く。)。 「衣料品切符制」昭和17年2月〜26年廃止。 1人年間1枚。この切符は総点数内でしか衣料を買うことができなくなった。総点 数は都市部で100点、郡部は80点。点数は羽織24点、背広25点、婦人ワンピース15 点、靴下2点、などとあるが、こまかい決まりがあったと思う。昭和19年には30才 以上40点、30才以下50点になったという。 またこのとき味噌、醤油等の配給統制規則もできて、6大府県と福岡県で実施され というが、次第に拡大され、全国で実施された(食管法。米穀配給通帳、外食券と いうのもあった。)。 こうした戦時中の生活は、皆さん身を以って体験されたことなので、皆さんの方 がくわしいわけですが、たゞ衣料切符で思い出したのは、この頃から布地もスフ (ステーブルファイバー)の時代なり、ピカピカのツルツルの布地には、皆さんも 思い出もあると思うが、私が困ったのは巻脚絆(ゲートル)だった。うまくしまら ないで、歩いているうちにズルズルッとずり落ちてくるので、巻くのに苦労した (不器用のせいでもあるが)。 話しは横道にそれたついでに、川上己代治さんの話しに関連して、奉安所のこと を書いたが、それは奉安殿といったかもしれない。白い壁をぬった土蔵のようなつ くりだったと思う。中に御真影も入っていたかもあやふやだ。たゞ儀式のときなど は、白い手袋をはいて教育勅語を持ってやってきて、校長もまた白い手袋をはいて うやうやしく受取って、重々しく読んだことはおぼえているが、出してくるところ も、しまうところもみたことはなかった。 御真影もいつどのように下賜されたのかわからないといったが、鹿角市史の中に 元山小学校沿革誌に、次のような記事があるのをみつけた。と「同年11月20日(教 育勅語の発布は10月30日)に郡役所から聖旨を奉体せよとの訓諭があって、勅語の 奉読式を挙げたことが記されており、その他の学校も一斉に奉読式や記念行事をも っている。」という。そして、 「またこれをさかのぼる同年八月、初めて花輪小学校へ御真影が下賜されている。 他の小学校も一月遅れて九月二十五日までに拝戴している。大湯小学校では、当日 全校児童と村の有志が錦木平まで御真影を出迎え、高等科生徒はさらに冠田におい て唐櫃(からびつ、……)に供奉し、隊吾を整えて帰校した」という。どこの学校 でも大同小異、似たようなことをしたろうと思う。 それにしても、当時は鉄道も開通していなかった時代だから(花輪線全線開通は 昭和6年)盛岡まわりにせよ、秋田まわりにせよ、何によって運んできたろうか。 さてまた元にもどって。 |