下タ沢会によせて(覚書)

元山から田郡へ学校移転

 ということで、田郡に新しい学校ができたが、こゝで私が迷ったのは、4項目と5 項目の記事。学校は41年の10月にできて、授業をはじめているのに、なぜ42年の4 月と6月に分散授業をしなければならなかったのか? が、考えてみれば、これは 42年とあるのは、41年の間違いではないか、そうなれば辻褄が合う。これは編集者 の間違いか思い違いか、印刷会社の校正ミスだろうと、一人で納得した。
 なお、この学校史の明治41年10月の校舎竣工のところに( )書きで、「村長は 明治29年12月就任の石井清太郎氏」とあるが、これも何にかの間違いで、石井清太 郎は第9代村長として明治36年7月より39年11月まで、次の第10代は高橋三吾で明治 39年12月より大正12年7月まで五期(第10代~14代)つとめている。したがって、こ のときの村長は高橋三吾ということになる。
 この歴代村長の任期などについては「鹿角のあゆみ」によったが、現在尾去沢公 民館にある歴代町長の写真に書いてある任期は、石井清太郎は明治36年7月より同年 11月となっており、鹿角市史も同様となっている。となれば明治36年より39年まで およそ3年間村長不在となるので、これは鹿角のあゆみの方が正しいのではないかと 思う。
 また明治29年のときの村長は、第五代三ケ田市助となっている。この人はどうい う人かわからないが、尾去沢の初代村長(明治22年4月~23年11月)をしている。
 この初代村長が明治22年ということになれば、それまで村長はいなかったか、と いうことになるが、それは村長、町長という名称がなかっただけの話しで、ともあ れ明治新政府は府県の行政組織を大区小区の区分にしたり、その後何度も合併した り切り離したりと制度も変っているようだが、明治21年に至り、新たに市制、町村 制を公布して翌22年より実施したという。以来昭和47年の鹿角市誕生まで続いてい る(村長18代、町長0代、最後の町長は兒玉政吉)。
 ちなみに明治5年のときの鹿角郡は第七大区で、その下に四ツの小区があり、尾去 沢は八幡平地区と共に第4小区となり、戸長(小区長とかは、いわなかったようだ) は阿部藤助、副戸長は澤出善右衛門であったという。下タ沢の澤出さんの本家筋? か。

 ともあれ、こうして明治41年に出来た学校が、私達が通ったいわゆる田郡の学校 で、学校名は今までどおり「秋田県鹿角郡尾去沢村立元山尋常小学校」で、後年尾 去沢小学校の分校(大正13年4月)となってからも、「元山分校」と呼ばれていたと いう。私達が入った頃(昭和4年)も元山分校であったと思う。田郡分校と名称が変 ったのは、何時からかよくわからない。

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