下タ沢会によせて(覚書)

ひき臼のはなし

 というわけで、火が消えて金になった話しは終りとするが、水でとかすといえば、 金鉱は水で溶かしたんじゃないかと思った。昔は金鉱を石臼ですりつぶして、金を とったという。火でとかしたか、水でとかしたか、それはどっちでもいゝとして、 その金ではなく臼をほしいと思った。
 今元山に行っても、物づきといえばおこられるが、気のきいた人が拾って行って しまったというよりも、土も崩れ草や木も生え、谷間には砂防ダムが出来て、探す ことはできなくなった。先年長坂金山跡に行ったとき、こわれた3分の1くらいのが あったが、背負ってもこれなかった。ただ残念だったのは、昭和63年の5月頃、今は 花輪にいる中新田生れの奈良カヤさんが音頭をとって、20人くらいで田郡の学校跡 まで行ったことがあった。皆さんご存知のようにその学校の上に杉山さん(優子さ んの家)の屋敷があって、その庭の小さい池(径1Mか1.5M)の縁に、なめらかに光 って半分くらいは他の石と一所に池の縁どりにセメントで固められているのがあっ た。これはいゝ物があった、いつかいたゞきとしようと思ったが、どうして下まで 下ろすか、家に持ってくるにはトラックがいる、と思っているうちに日が立ってし まっい、今回の下タ沢会の下見に行ったときは、植えられていた杉の木もすっかり 大きくなり、落ちた杉の葉も積重なり草も芒々となり、どこの屋敷跡だかもわから なくなり、まして池の跡など探しかね、残念でした。でそれはそれでいゝのですが、

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