下タ沢会によせて(覚書)

再び女人禁制 - 現代の話しいろいろ -

 女の人がはじめて坑内で働いたのは、勢沢の大剪坑だといったが、それ以来かど うかわからないが、私達が小さい頃は女の人も坑内で働いていたという。私が鉱山 に働くようになった頃(昭和13年)は禁じられていて、たゞ沈殿銅を取る女の人達 は入っていたと思う。
 沈殿銅を取る樋は、下タ沢にも沢山あった。上みの方から見てくると、元山沢の 入り口になる広くなっている所(タカチの坂の反対側)、昇さんの家の上み、下の 方は定雄さん家の上み、などが主な所だった。沈殿銅を取るには、樋の中に鉄屑を 入れて、それに坑内から出てくる水を流すと、水に含まれている銅分が鉄屑に附着 する。その着き具合を見て、沈殿婦といわれる女の人達が「ササラ」という竹を細 かく割って(やき鳥の串よりもっと細かく、もちろん割ったまゝ)1尺くらいの長さ にして、径1寸くらいの太さにして、上の方(握る部分)を束ねたもので、掃くよう にして洗い落とし(その時は樋の水を切る)、それを樋から取上げて適当に山もり にして、水を切って製錬に運んだ(坑内はトロッコ)。箱に入れて背負い上げる。 渋(しぶ)は重かったので、「沈殿ショイ」は重労働だったと思う(鉄に附着した 銅分を私達は「シブ」といった。坑内から流れ出る水は「シブ水」といった)。

 それでまた女人禁制にもどるわけだが、それは近年になって、禁忌ではなく女性 保護の立場から、坑内作業は危険だから、ということだったと思う。その坑内就労 の禁止は何年の年からだったか思い出せない。戦後は「鉱山保安法」というのがで きて、安全に働くためのより厳しい規則がつくられたわけですが、それ以前はたし か「鉱夫労役規則」とかいうのがあって、それができたときに、女の人が坑内で働 くことが禁じられたという気がするが、それは昭和10年頃ではなかったか、と思う がわからない。鉱山保安法の古いのには、それまでの経緯が書いてあったと思うが、 その本は閉山で鉱山をやめるときに、どこへやったかわからなくなってしまった。

 そのうちに1冊のノートが出てきた。なんだろうと思って見てみたら、最初の1~2 頁だけ鉛筆でメモ書きしている。何にか座談会かの聞き書きのようだ。尾去沢小学 校の100周年(昭和49年)記念事業で記念誌をつくったときに、「思い出を語る」と いう座談会を開いて、私も関係していたが、その時の顔ぶれでもない。書いてある 名前をたどってみると、高田とあるのは高田重雄さん、沢出というのは沢出正志さ ん、兎沢忠とあるのは兎沢忠蔵さん、土佐とあるのは土佐辰治さん、高田さん以外 はみな労働課の先輩で、私よりはるかに年上の人達である。話しの内容は鉱山に関 係あるので、拾い出してみると、

○元山の大火(大正14年)の2月19日は、坑内の米つけの日であった(鉱山では、日 を決めて米の払下げ?をしていた)。
○石切沢の坑口(現マインランドの入口)は大正5年(※)にできた。
 ※石切沢坑口は大正5年に出来たというが、私達が何がどうだか知らないが、その 坑道をシンセン(新線?)といっていた。私達は高等科になると、学校に行くのに 新通洞を通って万才の竪坑に出て、広い電車道(といった。鉱石を運搬する主要坑 道)に出て、しばらく行って、この新線に分れるところで、こっちが近いと(学校 におそくなった時など)そのまゝ電車道を真すぐ行って、選鉱場の上に出て、選鉱 場の中を通り抜けて鉱山事務所の方に出たが、別に怒られもしなかった。

○田郡方面(鉱石?)は赤沢坑口に出した。
○長屋にカジ場をつくってあった(これは土佐さんがいっているが、土佐さんは昭 和15~6年頃荒川鉱山から転換してきているので、どっちのことかと思ったが、「花 輪・尾去沢の民俗(下)の中で、山元昭一さんが次のように語っている。
 「昭和初期の頃の鉱夫の住宅は、通称ハーモニカ長屋と呼ばれていて、一戸は六 帖二間か、八帖の二間があり、玄関の土間の続きに自前のフイゴ(風を送る火床) があった。鉱夫は、その日の坑内現場で使用したタガネ(手掘用のノミ)を家で焼 き直すのが日課で、夕方になると坑内着のまゝ帰宅して鍛冶作業をした。
 学校に入る前の子供でも、祖父が坑内作業から帰ってくる時刻になると、火床を 真赤に燃やして帰るのを待ち、タガネ焼きが終るまでむ、ギーコー、ギーコーとフ イゴを押して火床に風を送って手伝った。」

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