鹿友会のこと
「はじめに」
 
 
△「鹿友会とは」その三 − 「鹿友会五十年史」明治時代
 
一、会と人
 明治二十年九月設立された鹿友会の第一例会は、仝年十一月神田今川小路玉川堂に 開かれた。出席者は九名(会員十二名)。
 
 席上、石田八彌、大里文五郎、青山芳得、本田伊三次四氏夫々専門の講話をなし、 会則を修正し、茶菓を喫し、雑談して散会した。
 入会金三十銭は積金とし、例会には各十銭を持ち寄る規定で、不足分は、誰かゞ寄付補充する。 これは、爾後久しく続いた不文の慣例となった。
   斯くて翌廿一年一月に第一回総会、三月第二例会、六月第三例会、十月第四例会と、集会の数を 重ねたのであるが、規則の文面には、毎月一回第一日曜日に例会を開くとありながら、意気軒昂たる 創立当時からして,此の規定が励行されなかった。
 これが、後年に至って、例会縮少論の台頭となり、甚だしきは例会廃止といふ極端説まで出て、 現状維持派との論争となり、結局明治四十二年一月に至り、「春夏秋冬各季一回以上例会ヲ開ク」 ことに改定され、現在に及んだ次第である。
   併し当時の例会総会とも、その会員数に比して出席率の素晴らしかったことは、これを今日の有様 に比して、文字通り隔世の感がある。
 初期の鹿友会員は、創立当時の十一、ニ名から、五年後の明治二十四年には四十余名に逓増したので あるが、当時の会員の出席数は、
 明治二十年十一月(例会)九名
 廿一年一月(総会)十名
 仝年三月(例会)十九名
 仝年六月(例会)十七名
 仝年十月(例会)十六名
 廿二年一月(総会)二十二名
 仝年三月(例会)二十三名
 仝年五月(例会)二十二名
 廿三年一月(総会)二十六名
 仝年三月(例会)二十二名
 仝年四月(例会)十五名
 仝年五月(例会)三十二名
 仝年十一月(例会運動会)十六名
 仝年十二月(例会)十二名
 廿四年一月(総会)三十三名
 仝年六月(例会)記録ナシ
 仝年八月(臨時会)二十二名
 仝年十月(例会)十七名
 仝年十一月(例会遠足会)十七名
 仝年十二月(例会)二十四名
 
 このうち、二十四年八月の臨時会といふのは、会員の夏季帰省を機として、郷里で 小集会を催したもので、爾後連年概ね開催され、近来鹿友会年中行事の一として盛大を極むる 「夏季大会」の例俑を作ったものである。
 併し当時は「鹿友会を東京以外の地で開くはどうか」といふ諤々の議論もあった。
 
 当時の鹿友会の集会は、総会でも例会でも必ずニ三人は演題を掲げて、その研究若くは意見を公表し、 それに対する賛否の議論があり、会規の振粛、後進の鞭撻についても遠慮なく談論し、席上生新溌溂の 空気が漲った。それも畢竟、今日の集会に見るが如き老、壮、青、少の雑然たる顔合わせとは異なり、 会員の年齢にも学業の程度にも大差がなかったし、殊に”燃ゆるが如き向上心に於て一致する所があった” からである。

[次へ進んで下さい]