鹿友会のこと 「はじめに」 |
△「鹿友会とは」その三 − 「鹿友会五十年史」創立当時 |
即ち鹿友会の設立、茲にその創業数年間、最も会のために努力したのは大里文五郎氏であった。
この大里氏が「鹿友会沿革」と題して、会誌創刊号(明治二十四年六月)に、次の文章を掲載してゐる。 「(前略)回顧すれば、余の始めて上京せしは、明治十三年八月にして、僅に十余年の歳月を経るに過ぎずと雖も、 当時我地方より笈を負うて東京に遊学する者、実に寥々晨星の如く、常に他地方人士に凌駕侮辱せらるゝの傾あり。 余と仝年仝月石田八彌氏上京、三田慶応義塾に入り、続て佐藤健次郎氏上京、麻布学農社に入れり。 余は三番町独逸語学舎に入塾せしが、余の胸襟を啓て談笑旅情を慰め、患難相救助すべきは、 僅に此両氏のみなりしと雖も、各自在学の黌舎互に遠離して、屡相見ること能はず、依て三人相議し、 毎月時を期して会合せんことを約し、其会場の如き、時に或は公園地内閑静の地を択み、或は牛舗の一隅に席を構ひ、 兼て自ら作る所の文章を携来りて、交互に之を閲読し、又は中村敬宇先生訳する所の自助論の類を論評して、 刻苦励精自立の精神を養成し、仝心協力以て、他地方人士の後に立たざらんことを勉め、又毎会若干の金を拠出して、 不慮の災厄に供し、如此にて数閲月、偶佐藤氏中途にして急に帰国のことゝなり、己むを得ず会合を廃止せしが、 其後内田清太郎、石川壽次郎氏等と謀り、我地方より上京者逐次増加せしを以て、更に鹿角会なるものを起し、 例月相会することゝせり。 其会日会場は、各自に便利なるを択み、雨降れば一堂に集りて茶話会を開き、天気快晴なれば弁当を腰にし、 手を携へて郊外に散策を試み、或は舟を隅田川に浮べて打興ずるなど、要するに親睦を専一とし、別に会則を設けず、 会員の資格に於ても未だ制限する所あらざりしなり。 然りと雖も「隴を得て蜀を望む」は人情の常態、既に親睦の点に於ては十分の好結果を見たりと雖も、 智識交換の点に於て未だ尽さゞる所なり。且つ漸次会員の増加するに従ひ、又之を永遠に 継続せしむるには須く一定の規約を定め、以て確固不抜の団体を設けざるべからず。即ち明治二十年夏、 当時官立学校在学中の者四五名創立員となり、駿河台石田氏の邸に会し、規則を編成し、鹿角会を改めて 鹿友会と称し、本会の主旨を明にし、会員の親睦に兼ねて智識交換の道を開き、会員の資格を定めて入退会の 手続を厳にし、積金の法を設けて患難相救済に便にし、後進者を誘導提携して、方向を誤らしめざらんことを期し、 若し会員中苟も本会の面目を損し、若くは成業の目的なきものあらば親疎を問はず、情実に拘泥せず、 十分に之を規諌し、尚聞かずんば断然退会せしめ、以て本会の真価を保持することを勉むべしとの約束を定め、 二十年九月正員十一名を以て創めて鹿友会を組成せしが、幸に在京及郷里先輩諸氏、亦大に此挙に賛同せられ、 金員を寄贈する者少なからず、爾後会員益増加し、創立より今日に至るまで、前後入会せる者四十五君の 多きに達し、随て会務報告、会員の動静等、記すべきこと報ずべきこと益繁雑を加ふるを以て、 茲に鹿友会誌発行の運に至れり。 思ふに此会誌の発行により、啻に本会の発達、会員の動静を審にするの便を得るのみならず、会員各自の所見を 述べ、志操を練り、本会の実力を示して益隆盛を謀るの術に於て、最好の手段を得たるものと云ふべし。」 |