鹿友会誌を紐とく
「第四冊(明治27.7)」
 
△「賛成員及地方会員諸君に望む 小笠原勇太郎」
 小笠原氏は、賛成員と地方会員の両方に向けて、投稿をうながす一文を載せている。
 
 (要旨)在京会員と在郷会員との交流を密にし、創設の主旨を忘れさせなん為と覚ゆ。 例えば親と子とし、生母が幼子を放棄している様にみえる。子を他に授けて顧るこ とせずば、不親切と云える。鹿友会に対してどしどし意見を言って欲しい。
 
△「思ひ出るまゝ 大里武八郎」
 大里氏は、この中で次のように述べている。
 
 (要旨)鹿は友情の甚だ深きもの、食物などを得れば、先ず数多の友を呼び集める。 これを集と呼ぶ様は、他の鳥獣がかかるおりに只雌のみを呼ぶとは、大に異なれる。
 詩にある、幼(口偏+幼)々(ゆうゆう)鹿鳴食野の苹も美食を得て、其友を呼ぶさ まを愛で、これを仮りて賓客を饗するとに歌へるなり。鹿友会の名も鹿角の鹿の字で はあるが、これらを思えば、この名も偶然ではないように思える。
 
 地図を開いて日本地図を見れば竜の如く、東北はその頭なり、奥羽を頭とせば、鹿角 は脳髄かとも思える。一大蟄龍を起して宇内を雄飛せしむる重任、ここにあり。
 
  開けるということは、一般にいう善いか悪かの判断に苦しむ。少数の外来人に化せら れ、多数の人の美徳を失うことは、憂ふべきことである。ついては、在郷の会員は、郷 里に於いて一つの鹿友会を組織し、本会と連絡を密にし、鹿角をもって奥羽開化の中心 となすべきなり。
 
△明治二十七年賛成員二十四名、正員五十七名(学生二十三名・就職者(含軍人)十八名・ 不明十六名)

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