鹿友会誌(抄)
「第二冊」
 
△鹿角郡諸鉱山概略記   川口恒藏
 こは予、昨夏帰省の折、家父に就き其概略を聞き取りたるものにて、詳しくはあら ねど、其概略を知るに於て、便にもならんかとて、とりあへす本誌に掲くる事とはなし ぬ、其委しきことは、他日又ものにすることあるべし
 旧盛岡藩領金銀銅鉛山、凡て五十五ケ山あり、其内鹿角郡二十ケ山を占めたり(外衍 小鉱山さはにあれど挙けず)
 
一、西道金鉱 慶長三年寅年発見、長尾重左衛門(南部家重臣)稼行
一、五拾枚金鉱 慶長十二年未年発見、長尾重左衛門稼行
一、夏山金鉱、寛文三年卯年発見
一、元山銅鉱(旧横合と称し、天明四年五月より元山と改称せり)、寛文六年発見、此年 三矢澤新田開く
一、田郡銅鉱、寛文八年発見
一、永坂金銅鉱 元禄八年亥年銅鉱発見。翌子年暮より金鉱発見、卯年より午年まで四年 間大盛、此間一日出金高拾弐三貫目位宛にして、国主へ御礼金として三ケ月に金千両つ ゝ差上、御役立として七分三□□せし由、旧記に見ゆ、此時、永坂戸数千戸、寺八個寺 ありし由なり、今も其の跡尚存して園石庭樹依然たり
一、崎山銅鉱 元禄九年発見、熊谷治兵衛・井上吉右衛門・山野目小平治稼行
一、鶏長根金鉱 正徳五年、嘉八と云者発見、和久屋平左衛門稼行
一、赤澤銅鉱 元文三年四月鉱夫藤助発見
一、同所笹平金鉱 寛保三年三月発見
 
 以上は、尾去澤鉱山なり、即ち尾去澤鉱山は、慶長三年発見、旧盛岡藩士長尾重左衛 門開業、享保八年より明和弐年まて盛岡商人井久屋權四郎外十八名にて稼行、明和弐年 十一月より明治弐年まで旧盛岡藩主南部氏稼行、明治弐年三月より同五年まで盛岡商村 井茂兵衛稼行、明治五年四月より同七年二月迄大坂府下商岡田平藏稼行、明治七年二 月より同八年まで東京府下商岡田平馬稼行、明治八年二月より同九年まで東京府下商 岡田平太借区坑業、明治九年九月より同十年迄右岡田平太並に東京府士族阿部潜、秋田 県商槻本幸八郎、東京府商濃泉勝三郎の四名組合借区稼行、明治十年六月より仝廿一 年一月まで前四名発起にて鉱業会社設立、借区稼行、明治二十一年一月より岩崎彌之助稼行
 
 尾去澤鉱山出銅高
 旧藩主稼行中は、毎年八十万斤を下らず、百五十万斤に上れり、岡田氏稼行以来、 出鉱一ケ年平均八十八万七千弐百七拾弐貫弐百目、此製銅凡六拾壱万斤也
 
一、槙山金山 慶長四年発見、柏屋與左衛門稼行
一、白根金銅山 慶長三年発見、金山は青山金右衛門、銅山は山野目小平治稼行
一、不老倉銅山 元禄六年発見
一、鴇銅山 天和四年発見
一、立石銅山 天和三年発見、延享元年まで六十五年稼行して爾後休山
一、四角嶽銅山 元禄十年発見
一、十和田鉛山 寛文元年九月発見、白根傳吉稼行
一、同銀山 享保二年九月発見、同五年四月より白根傳吉稼行
一、栃久保鉛山 延享元年発見
一、夜明島鉛山 宝暦十二年発見
一、駒木金山 元文三年発見
………
 小坂鉱山の事は、頗る詳細を要すべきものあれば、次号に於て之を記すべし

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