鹿友会誌を紐とく 「第一冊(明治24.6)」 |
△鹿友会の沿革(創設時) 大里文五郎氏が上京したのは、明治十三年八月である。 同年、石田八彌氏、佐藤健次郎氏上京、この三人が相議し、毎月会合する。あるいは 公園、また牛なべやの一隅で会合することとした。 その場に自作の文章等を持ち寄り、論評したり、また毎回若干の金銭を出し合い、不 慮の災厄に供した。 佐藤氏の帰郷により、会合は廃止されたが、その後、内田清太郎氏、石川壽次郎氏等 と謀り、上京者が逐次増えたため、鹿角会というものを起し、月例相会とした。会場は、 雨が降れば茶話会を開き、天気が良ければ弁当を持って郊外に散策、あるいは舟にて墨 田川で興ずる、などの親睦を旨とし、格別に規則などは設けなかった。 漸次会員が増加するにあたり、駿河台の石田氏邸に会し、規則を定め、会名を「鹿友 会」とした。 同二十年九月、正員十一名をもって組織し、創立より四年を経て、鹿友会誌第一冊を 出版する頃には、四十五名の多きに達した。 △鹿友会創設の主意 明治以後、社会的に智力がこれからの時代を背負う、よって進境開地においても高尚 教育を欲するところとなる。高尚教育は、どうても上京せざるを得ない、が、あるいは 都会の風潮に眩惑され、あるいは学費欠乏になり、あるいは健康を害する者などがあり、 郷土の父兄は、それぞれ大変な心配をし、せっかくの有為の少年を山間の埋没させるこ とも往々にしてあった。 同郷の学友がそれらを鑑み、鹿友会を創設して、その憂いを一つでも少なくし、また、 それぞれの勉学の励みとしても、と組織したものである。 △鹿友会規則について 鹿友会規則は、十七条ある。 第三条の「会員ヲ賛成員及ヒ正員ニ分ツ」の賛成員とは、鹿友会の主旨に賛成し隆盛 のために尽力する者、正員とは官私学校に在学する者及び独立生計を営む者である。 第七条では、毎月一回学術上の談話や質疑等をし、例会日は毎月第一日曜日とする。 第八条では、毎年一回総会を開き、事務報告、役員の改選をする。 第十二条では、毎年二回報告書を発行し、会員及び会員の父兄に頒布する。 報告書記載事項は、 一、会員の言行並びに成績 一、会員の学術上の論説 一、会計並びに時々の模様 第十三条では、正員の入会料三拾銭、例会毎に拾銭とする。 第十四条では、会計に残余が生じたときは積金とする。 第十五条では、会員が疾病又は災厄にあい、やむなく入用の時は、その費用を貸与す る。 なお、明治二十四年五月までの積金 @在郷賛成員の寄付 拾円 小田島由義 五円 大里壽 笠原秀吉 内田慎吾 根本五郎 小計 六拾九円 A入会料 28名 小計八円四拾銭 △「会員諸君の省慮を乞ふ 正員 山本祐七」 この中で山本氏は、次のように論説している。 鹿角郡における明治十九年度の統計によれば、全郡の小学校の教育費は三千九百円で、 町村費の四分の三である。 会員の学資概算は、一年の総額は二千五百円〜三千円であり、つまり数千の学童に対 して、我々二十〜三十人分にあたる。 会員諸子へ、吾故郷の集勢を省みるのに怠るな。自分達の故郷は、それ以外の税金も 含め五万円以上に達するのだ。鹿角は商業も工業もたいしたことがない。小坂、尾去沢、 小真木の鉱山があるといえど、その利益の大半は他郷の人が持って行ってしまう。 唯一の財源は、同胞三万余人の三分の一強を占める農民の辛苦労励にあり。 △賛成員十八名(東京、小坂、花輪、毛馬内、尾去沢、曙、廣島)、正員四十名 |