鹿友会誌(抄)
「第四十五冊」
 
△廣島芳夫君を憶ふ   中島織之助
君は花輪生れで、毛馬内育ちである。年は私より二つ上であったが、小学校は壱年下で あった。尋常二年まで花輪小学校で、三年から毛馬内に転校された。
 他から転校されたので、一般の児童は君を馬鹿にして、何かとつらく当ったものである、 それに義憤を感じた私は蔭に陽に君をかばってやった、それが原因となって君と私とは、 一生兄弟の如き親しい交りを結ぶことになったのである。
 
 私が大館中学に行った頃は、君は上京して苦学して中学に通って居った。君は晩学で あったので、中学中途で兵隊に行くことになり、騎兵として日露戦役に応召した。
 私の慶応に在学の頃、君は帰還、在郷中であったが其のまゝ埋れさせるのも残念と、 兎に角君を東京に呼ぶことにした。
 
 当時麻布区飯倉町の薪屋の二階に豊口甚六様を監督と戴いた自炊団体はあった、君も 其自炊団の一員となり、苦学して先づ中学卒業の検定試験を受くる準備をした。
 たまたま攻玉舎の土木科の本科で、中学を卒業せずとも入試に合格さへすれば入学を 許可するといふので、それを受験することにした。受験発表を見たら、発表に君の名は無い、 がっかりしたが、中学卒業生でさへ落ちる者が多いのだから無理もないと、落胆する君を 激励して、第二段の作戦を研究して居る、学校から直ちに出頭せよとの通知はあった。 行って見ると補欠で入学を許可するから、明日授業料を前納せよ、とのことである。 神の助けと悦んだが苦学生だけの集合体だから、四五十円の授業料を明日直ちには困った、 然し窮すれば通ずるで、一夜の内に取纏めて、翌日全納した喜びは、君も怖らく一生の 思出であったことだらふ。

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