鹿友会誌(抄) 「第四十五冊」 |
△小笠原敬三君経歴 君の消息は鹿友会には始終甚だ薄く、従ふて其の御遺族との懇親もなく、此追悼号 起稿中に材料の収集致し兼ねたるは是非もなし、止むなく編輯子の記憶する所を記して、 他日其の写真、経歴、行年、法名等を入手せる際、次の幹事長の会誌寄稿に補遺として 掲載せらるに譲る。 君は小阪の出身である、幼にして秀才の聞えあり、盛岡中学優等にて卒業、第二高等学校、 帝国大学文科を経て、母校盛岡中学に教鞭を執り、後、會津若松中学、山形新庄中学に 校長となり、盛岡に医専の創立せられるや、迎へられて教授となる、事実上の校長なりし といふ、而して其の在職中、病を以て長逝せらるるものなり。 君の盛岡中学生徒時代、其の文才に於いて前後十年間、斯る文才ある者なしと称せらる、 校長として在職中は、其の部下教員を採用する方針は、単に其の卒業の履歴に捉はれず、 検定資格者と雖も、学力人物、就中其の徳望に重きを置きて採用せりといふ。 君の令閨は、原敬氏の姪にして、原氏、君を東京に於いて新聞社を起して、其の社長たらしめ、 其の文才を以て自己の政治上の裨益せしめんとせしと聞くが、高潔の君子人たる君の、 如何に一代の総理大臣となる人の下にも、其の爪牙たる役割に当るは屑とせず、教育界に 入りて始終せるものなり。 |