鹿友会誌(抄)
「第四十五冊」
 
△高杉八彌君経歴
  略歴
一、明治四十二年二月十五日 秋田県鹿角郡尾去澤町に生る
一、大正十二年三月 同町小学校卒業
一、昭和三年三月 法政大学商業学校卒業
一、昭和六年三月 小樽高等商業学校卒業
一、昭和六年四月 岩崎家庭事務所入所、東京在勤
一、昭和六年九月 同所経営在伯カーザー東山サントス駐在員
一、昭和十五年三月 カーザ東山商事部聖市事務所輸出係主任兼経理主任
一、昭和十六年四月 岩崎家庭事務所、東京在勤
一、昭和十六年六月 東山農事株式会社総務部業務課長代理
一、昭和十六年十二月 同社総務部業務課南米係長及南洋部員兼務
一、昭和十七年五月一日 陸軍の事務を嘱託す(無給)
一、昭和十七年五月八日 陸軍の命を受け、占領地資源開発経済班員として南方現地赴任の 途次、東支那海に於て遭難殉職
  新帰郷 天鏡院忠光義照禅居士 高杉八彌
  行年 三十五才
 
  追憶記
 君は、尾去澤町西道口の名家に生る、小学校時代より学力優秀、品行方正、全校の模範たり、
 上京して三菱鉱業会社に給仕として入社、夜間法政大学附属商業学校に学びて卒業、志を小樽高等 商業に立て、第一回戦にて見事に合格、昭和六年三月同校卒業と共に、前記経歴を辿りて、昭和 十七年五月八日殉職せるものなり、君の人物は如何なる人なりしかの大要は、次記其の母校小樽 高商校長の同校出版の新聞に記載したる抜粋の如き人で、敢て贅せず、鹿友会の貸費生で、常に 其の会に対する恩を憶ふて、私かに報恩の念、甚だ厚く、返還の如き甚だ早く、元金に数十金の 礼金を添へて返済するの至誠振りであった。南方現地赴任に際しては、三十円の寄附を会に送金 して、不在中の義務怠慢する虞れある為めに寄附する意味の手紙を添へてあった。以て君の為人を 想見するに足る、鹿友会の癌として代々の幹事長を苦慮せしめたる、滞納問題につきては、 關琴一郎君等と完納者に依て団結する会を作り、解決方策に尽力するなど話合もせしが、 今や斯の人亡し、噫。
 
 終りに蛇足として、君の伝記に逸してはならぬのは、君の若き未亡人の貞淑美談である、良家の お嬢様として育てられたる人は、君の殉職後、君の実家及び親類、其の未亡人の実家の人より、 実家に帰て徐ろに後図を為すべきを極力勧告するも、断乎として拒絶し、慣れざる農家生活を 西道口の君の家にて営み、畑にも耕す馬も飼ふ、来年あたりは田にも入るべしと、全部落婦人の 亀鑑として、驚嘆せしめられ居るといふ仄聞ありたること、是れである。

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