鹿友会誌(抄)第四十四冊
特別発刊「鹿角出身産業家列伝(第一輯)」
 
△和井内貞行氏
 
 十和田湖開発の大恩人 和井内貞行翁
  養魚と十和田の勝景宣伝に専念
 十和田湖の養魚成績は漸次良好に向ひ、湖上至るところに魚影を見るやうになった為、 明治三十年六月網を投じて本式に漁獲を始めた。幸に制せ間良好鯉の大物が続々あがり、 二尺以上の大魚が少くなかった。之を毛馬内、小坂、花輪の町々を始め各地の魚市場に 売出し見た。
 するし十和田鯉は体が肥大で脂肪に富み、泥臭くないといふので、どこでも大好評で あった。そこで彼は此の年断然藤田組を辞し、専心養魚事業の経営と十和田の勝景宣伝 とに邁進することにした。時に年は四十歳。
 たまたま此の歳神戸市に第二回水産博覧会が開かれた為、彼は十和田湖紹介の好機と なし、崎づ湖産の大鯉二尺五寸余のもの二尾を出品して大いに世の注意を喚起し、更に 神戸に出張して十和田湖の絶景に関する文書宣伝を試みた。彼の宣伝は単に印刷物によ ったのみならず、或は記者団、或は名士等を現地に招致することに勤め、又遊覧者を迎 へる必要上、同年湖水に面した一商店を譲り受け、之を三層楼に改築して旅館とし観湖 樓と名づけた。
 
  養鯉に失敗
 さて従来が主力を注いだ鯉の養殖で、其の発育も繁殖もよかったが、収支の償はぬ事 業であることが明瞭になった。この年(明治三十二年)彼は新に巨資を投じて大規模の 捕獲を試みたが、存外の薄漁であった。その原因を調べて見ると銚子滝から流れ落ちて 再び湖水には帰らぬものであった。
 然るに来いは産卵期以外は大抵水中深く泳いでゐる上、敏捷なものであるから、網を 投じても容易にかゝらない。随ってその猟期は五六月頃産卵の為、湖岸附近の比較的浅 い処に集る時に限られて、僅か二三箇ゲツに過ぎない。之が支収の償はぬ原因であった。

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