鹿友会誌(抄)第四十四冊 特別発刊「鹿角出身産業家列伝(第一輯)」 |
△佐藤忠彌氏 株式会社佐藤鐵工所社長 佐藤忠彌氏 一、其の祖先 佐藤氏の祖先は、鹿角柴内村に居住せる人なりしと云々、佐藤権兵衛といふ人は盛岡 より移りて不老倉銅山に居住せるに偶々同山の休山となるに及んで、尾去沢鉱山に移住 するに至れるものなりと伝ふ。 尾去沢移住後の祖先の職業は、鉱内の労務に従事したるものなるが、同職中に於いて も頭角を現し十羽うの位置を与へられ今日の言葉を以て表顕すれば、産報功労章の所有 者とも称すべく、南部藩主より御紋付の裃を頂戴せる人もあり(写真社長の背後の掛物) 又文筆の趣味もありしか如く、古き日記帳の如き驚くべき刻命のものを遺せり、而して 明治維新となり岡田山主より現在の三菱の所有となりて尾去沢の雰囲気は益々変化せり、 佐藤家の上には不幸は襲へ氏の七歳の時に父君は長逝し、此の佐藤家の不幸こそは、今 日氏の成功より考察すれば、天は幼時忠彌氏をして窮苦の裡に其の心身を鍛練せしめ、 今日の成功を開拓せしめたるものであった、宜なる哉氏の神仏崇敬の念の厚きことを、 神の恩寵を落魄の裡に痛感せる者のみ知る心境であらう。 二、氏の台頭胎動時代 天は斯の人に大任を下さんとするや、必す先つ其の心身を労すと、神は氏に今日の成 功を与ふる為めには決して無条件でになかった、先つ一大不幸たる家厳の逝去といふ災 厄を課せられたのである。高等小学二年の科程も半途にして、先つ坑内稼をせさるを得 さる運命となった。今日は今日まで、肩を並べて学校に通学を共にせる友は、依然とし て通学の出来る幸福の有様を見て、自己は学半途にして坑内入りをせさるを得さる境遇 となった氏の真情は如何であったらう。蓋し幾度か暗涙を呑んだであらう、氏は茲に於 いて自己の性格と坑夫生活者の幾多の人々とを考ひた後に決然として覚る所あり、 辞して北海道に赴いたのである。今日より見れば、十五歳の少年に此の反省を与へて、 翻然として新生活を選ばしめたるものは、疑ひもなぐ神の声なき託宣を受けたのであら う。 渡道せる氏は、始め小樽手宮鉄道工場の徒弟となりて、鍛冶職に第一歩を踏み出した のである二ケ年の勤続して、武者修業の意気を以て、夕張の工場に入りて製罐工を学ぶ。 更らに函館に移り同職を習得す。斯くして北海道六ケ年遂に、二十一歳徴兵検査の時至 る、郷里尾去沢に帰りて検査を受け甲種合格となる、茲に至りて氏は考ひた、余既に六 ケ年の忍苦修養時代は経た、是れより入営までの間暫く上京して、東京に於ける工業界 を研究するは、将来の為めに益すると所あるべし、且つ事業を経営するは、矢張り大東 京に限るべければなりと、京極区月島機械製作所に入社し、有名な黒板博士の令弟にて 工学士黒板傳六氏の工業経営振りを凝視研究したのである。斯く入営前の時間を有益な る研究に送り、対象六年弘前師団五十二連隊に入隊したのである。当時の連隊長は先頃 死んだニタ子石中将其の人であった。 |