鹿友会誌(抄)第四十四冊
特別発刊「鹿角出身産業家列伝(第一輯)」
 
△山勇太郎氏
 

北海道に曾て硫黄山王と称せられたる
山勇太郎氏(尾去沢出身)
 
 氏は花輪学校の秀才卒業生である。同級生に櫻花妬雨に嫉るの概もあった、尾去沢よ りの通学生の後輩、皆氏の庇護を受けざるなし、一別以来春風秋風幾星霜、杳として消 息を絶つと雖も、氏の北海における仄聞は常に耳にして、其の成功を祝福せり、氏は故 郷の寺に先考の為め青銅の墓を建つ、蓋し氏の孝心を知るべし。
 
 不文を綴りて本年号に寄す
山勇太郎
 余は尾去沢村の一小部落に生れ少年時代に郷里を出で十九歳初めて鉱山界に一歩を踏 み二十四歳北海道に渉りて渡島半島より根室に至る、全道の各地硫黄山に就職しつゝ 或時は石炭山に金属山に諸鉱物の研究を重ねつゝ此間多少斯界に貢献せしも何等社会的 に頭角を見はすに至らす、晩年内地に移りてニ三の鉱山を経営せしも病を得て中止し、 今は僅かに仙台市の一隅に蟄居して聊か余喘を保つゝ在るのみ回顧すれば往年の寒村児 而かも三十有余年鉱業界に活動して、北海道に東北に或は函根湖畔の硫黄製煉にまで、 余勢を駆って東馳西走の間に華やかなりし時代を演じて実験を積みたるも、之れを縦横 に行使成功するに至らず、徒らに馬齢を加へて若年時の暴食が因をなし、二十七貫の堂 々たる体躯の得意も一朝の夢と化して現在糖尿病腎臓炎を併発し、今時産業国策の使命 に応する能はす、多年研鑽の力を展ぶるに由なく、余生を恨事に送る何の成功か之れあ らんや真に国家に対し恐懼に堪へざるなり、望むらくは後進の諸君よ宜しく前者の顛跌 を踏まず、各自の霊肉は各自の占有にあらずして天下公有の尊体たるを自認せられ、各 々其職域に錬磨の功を積み以て有終の美を世上に提供せられん事を。
 
 終りに臨み余は後進鹿友会諸君に向って聊か得たる硫黄界の感想を述べて斯界の業者 に声援を捧げ、併せて自己の空名存在を告白して本年号の資料を寄せ以て過去失態の幾 部を償はんと乞ふ、之れを諒せられたし。
 抑々我か国の硫黄産額は嘗つて世界第三位に列したるを持って硫黄国の名あり、其応 用頻る広範に渡り、薬品に軍需品に製紙に又人絹資料に一日も欠くべからざる鉱物なり、 然かるに現在は戦前産額の三割減を来たし、年を追ふて減量の傾向にありと之れ過去に 於ける戦争の余波に因る諸般の影響ならんも、今や大東亜戦争は陸に海に連戦連勝南方 の治安恢復着々として成りつゝあり近き将来に於て南方より物資の輸入を仰ぐや論を待 たず聞説く南方の諸国は多く人絹の消費国として莫大なる此資源を日本に要求せんとす るの雲行きにあり、此時に当り南方より輸入品と換算を建つる物資の主なるものは独り 人絹の供給に依って存す、金貨本位に狂奔したる時代は過ぎて硫黄製産に大活動を演ず るの日は必至の趨勢にして敢て遠からざるを信ず、若しも此観察的中せんか、日本の鉱 業界は硫黄製産を以て首位に移し、従って現在の価格暴騰を来し未曾有の好況を実現す る事は予想すもに憚からざるなり思ふて此処に到れば南方開発上、国家の必需品唯硫黄 の増産に重責を痛感せざるを得す。
 
 吾が親愛なる鹿友の諸賢よ鹿角の硫黄地帯は八幡平を基準として熊沢、石仮戸、兄の 畑に到る間延々たる火山脈に胚胎せる鉱床は往時余の踏査に記憶せる処にして相当なる 埋蔵量を推定し得たるなり、此処に優良なる旧、新、鉱区を探ぐって飛躍的開発に努力 し硫黄王国の大成金となり、国運発展に一大奉公の実を挙げ鹿角の名声を博するを得ば、 余の本懐之れに如かんや敬して茲に筆を止む。
  昭和十七年六月十七日識之

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