鹿友会誌(抄)
「第四十四冊」
 
△民間鉄道工事請負の元祖(続き)
 明治二十二年中翁は北海道庁の土木部へ転任して家族は札幌に移り、北海道に於ける 鉄道建設に関する仕事を開始したのである。
 北海道に於ける最初の仕事は輪西岩見沢間の室蘭線であった。其の布設者は炭鉄道会 社であったから、彼の身柄は道庁から会社へ移譲され、会社の技師として建設に当り、 翌二十三年から二十六年迄満四年間彼の円熟し来ったる技術を自由に、且つ縦横に駆使 し、彼自身の大なる満足の対象として、工事を完成し得たのである。
 翁は室蘭線の建設工事中測量の時にも、土木工事中にも、東大及び北大の工科の学生 の実地見学を指導したので、現在我国の土木工学の諸大家の脳裏に翁の印象を止めたの である。昭和十四年の暮に北大出身者が大村卓一氏の満鉄総裁歓迎会席上に於ける座談 会中に、町井勝太郎の印象が話題に上り、鉄道界の恩人として感謝されたのを見ても明 白である。
 明治三十九年八月三十一日の大火で、全市の大半が烏有に帰し、彼も亦家も家財の凡 てを失ったので、同年十月旭川の師団道路に面した彼自身建設した家に帰り来り、翌四 十年現在の二條通一丁目の家を新築し、今日に至るまで、三十五年悠々自適哲学宗教の 修養に没頭し来ったのである。
 
 町井勝太郎翁は今此の世を去ったが、彼が二十歳の青年時代から、九十二歳の老境に 達する迄徹頭徹尾科学的立場に、立脚し至る所に偉大な足跡を残したのである。
 彼が九十二歳の高齢を生きたと云ふことは、彼が長命の生まれであるとか、順調で幸 運で有ったとか云ふ観察は妥当にあらす、彼自身の注意力そのものが斯く長命ならしめ たのであらう。
 彼の性格は著しく科学的であって、明治十五年頃今から六十年も以前に彼自身製作し て使用してゐた計算尺の如きは、創造的精神の現はれと言ひ得る程の立派なもので、旭 川市の自宅に保存されてゐる。又明治の初に日本政府の御雇技師で土木の大家であった レーマン氏は帰国する際に彼が愛用してゐた小型トランシット一台を勝太郎に贈って友 情の記念としたと言ふことを聞いてゐるが、此の事から見ても如何に翁の科学的精神が 光ってゐたかが想像出来ると思ふのである。
 翁は斯くの如く輝いた科学的精神の持主であったのである。
 
  附言
 翁の郷土花輪人は、先輩に此の翁あるを知る人ありや、産業人伝の功果此の翁を紹介 せるを欣ぶものなり。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]