鹿友会誌(抄)
「第四十一冊」
 
△五十周年の回顧録
○昔語り
 兄が卒業近くなって忙しくなってから、山本祐七さんや川口恒藏さんが専ら幹事として世話をして くださいました。此お二人と湯瀬さんと三人で、駿河台の鈴木町に家を一軒を借りて、自炊して居られ たことがあって、此処にもよく集ったものです。私等の通って居た成立学舎といふ予備校が其の隣 でしたから、学校の帰りによく寄ったものです。自然其処が本部の様になり、会誌の二号か三号かは、 川口さんが其処で編輯し、私も校正か何かの御手伝をした記憶があります。学校の成績を会誌に 載せられるので、皆弱ったものです。
 
 山本さんが蔵前を卒業して、盛岡に行かれたので、そこが解散になってから、本部が飯田町に 移りました。飯田町の六丁目土手の側の根岸といふ下宿屋に、幹事の内藤・川口の御両君が陣取って 居られたからです。私は高等学校の寄宿に居る頃で、土曜日曜には必ず押しかけて行ったものです。
 内藤さんや川口さんの部屋には、書物が一ぱいあったから、御留守でもかまはず上って、手当り まかせに読んだものです。内藤さんが初めて新聞記者になって、三河新報へ行かれたのは、其所からで あったか何うかははっきり覚がないが、岡崎から帰られてからは、其所に居られました。
 
 其頃は、私も幹事の末席で例会の会場を探したりなど、下廻りの役割をして居た様な気がします。
 内藤さんが居なくなったり、川口さんが郷里へ帰られてから、私が一切の幹事の仕事をする様に なりました。私が学校の寄宿を出てから、又加藤に下宿し、其時も鹿友会の人が可なり大勢、其所に 居ましたから、自然郷里の人はよく集りました。
 
 それから、本郷西片町十番地に川村さんに、少し広い家を借りて頂いて、佐藤良太郎君、田村定四郎君 等と共に御厄介になりました。川村君を頭領にして、花輪毛馬内の人五六人はいつも居ましたから、 今度は其所が会の本部の様になりました。川村君が大学を卒業されて、此の梁山泊を解散し、私共は又 加藤に下宿し、暫くして小石川の戸崎町に元の片町連中と自炊を始め、後に本郷の丸山福山町に 引越したのでしたが、幹事の私や佐藤君が何時も一所に居ましたから、私共の居る所が、本部の様になって、 郷里の人達はよく集ったものです。
 
 良太郎さんが、早稲田を卒業して奥さんを迎へ、花輪へ帰られ、明治三十八年私が内藤さんの御供をして、 第一回に満洲へ行ったときにも、田村造酒三さんなどが其所に頑張って居て下さいました。
 私は四十二年の十一月に、内藤様の御世話で台湾に参ります迄、其所に居ました。幹事もそれ迄 勤めて居た様な気がします。彼是十何年か続いて幹事でしたけれど、何等本会に貢献した事もなく、 今にして思へば、員に列った丈で、お恥かしい次第です。

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