鹿友会誌(抄)
「第二十四冊」
 
△亡友追悼録「和井内貞行翁」
○岳父和井内貞行翁終焉の記   義子 青山文太郎謹識
 大正十一年五月十六日、岳父和井内貞行翁病を以て逝く。嗚呼哀しい哉。
 翁、身体強壮、精神活溌、之れに加ふるに固く摂生の法を守り、眠食時を誤らず、運 動苟くも惰らず、六十余歳の老齢を以て、起居動作、猶壮年の如し、其の能く天命を永 ふして、八九旬の寿域に躋ること難からざるは、我等の信じて疑はざる所なりしに、去 る四月上旬、病床に伏してより荏苒快方に赴かず、遂に溘然として長逝せらる。年を享 くること六十有五、嗚呼哀い哉。
 
 翁の偉業功績は世人の已に知悉せる所、復我等の贅辞を俟たざるなり。
 蓋し翁二十六歳の壮時、十和田鉱山に職を奉ずるの傍ら、日夕湖面を眺むるにつけ 、古来一尾の魚介だに棲まざりし渺茫たる湖水に、千古の迷信を排して、魚類養殖の大 志を立て、而して事志と違ひ、数回の放流も全然失敗に終り、家産を蕩尽し、世人の嘲 笑せらるゝに至りしも、毫も素志を擲たず、益々努力奮闘を続け、遂にカバチツホ鱒の 魚殖に成功の曙光を視、九百万尾の鱒群、湖面に彩って回帰するに至る。爾来益々事業 を拡張し、多数の鱒魚を市場に供給し、また卵種をば全国の沼池に配付するに至り、即 ち無鱗の大湖は、一変して三千万尾の佳鱒を視るに至り、又全国湖沼養鱒の策源地た るに至る。
 
 宜なり、生前已に勅定の緑綬褒章を授与せられ、病危篤なるや、天聴に達し、特旨を 以て正七位に叙せられ、葬儀の際は、秋田県知事代理として細川内務部長、親しく焼香 を捧げ、弔文電報数十通の多きに達し、郷人雲集して其霊柩を送り、数十年来郷里に未 だ嘗て見ざるの盛を極めしこと。
 
 要するに翁は、十和田湖を背景として天下に活動し、十和田湖の開発宣伝を以て一生 を終始したりき。
 晩年養魚事業を嗣子貞時に一任せる後、東奔西走、十和田湖絶勝の宣伝と、交通機関 の整備とに全力を注ぎたりしなり。今や同湖、国立公園の調査漸く始まらんとするの今 日に至り、突然翁の遠逝を見るに至りしは、実に何物にも代へ難き損失と云はざるべ からず。
 
 養魚の方面は、今や守成の域に達せりと雖も、絶勝地としての十和田湖の宣伝は、未 だ充分ならず、前途遼遠、益々翁の努力奮励を俟つべきもの多し。功成り名遂げ、棺を 蓋ふの以前に於て、已に大成功者と謳歌せられたる翁も、此大事業を遺して瞑目せる は、実に千秋の恨事と思惟したるならん。
 
 我等一族は、翁の遺志を継承し、偉業を完成し、粉骨砕身、以て翁が理想の実現に力 むるは、翁の英霊を慰藉するの道にして、また国家と郷土とに奉公するの道なるを確信 するものなり。
 爰に翁の終焉記事を編し、我等一族の備忘に供す。若し夫れ翁一代の偉業を顕彰し、 世道人心を裨補し、天下の子弟をして感奮興起せしむるが如きは、我等浅学不才にして 文事に疎きものゝ企及すべきに非らず、他に適当なる執筆者に俟たんのみ。

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