鹿友会誌(抄)
「第二十四冊」
 
△大日堂並に奥の院五の宮大権現略縁起
 才徳抜群、四人の臣あり、四方の業を掌り、数軍の田畑を開き、耕作を営みけり。然 るに西の方に当りて、人も馬も通りがたきの難処あり、 今の湯瀬村と小豆澤村の間にあり
 川の広さは僅か十間余なるも、両岸高く峙ち七丈に満てり。其時杉澤村の奥より天狗 集り来りて、一夜の内に岩壁を掘り、大木大石を伐り払ひ、此の処に橋を掛ける。而し て鹿角比内両郡往来の道開けたり。故に其橋を名けて天狗橋と云ふ。後の世人馬通行し て障りなきは是れ天狗の助けなり。
 
 長者富有、既に極り万事意の如くなれも、一人の子なし。大いに患ひて土壇を築き、 日々大日霊の神を祈りければ、其信心感応ありて、一人の女子を生めり。其名秀才女と云 ふ。父母の寵愛浅からず。成人するに随ひ、容顔勝れて美しく、此のとき、金銀通用な し、米充満素封の名隠れなし。
 
 人王二十七代継体天皇の御宇、長者の女、秀才女美人の由を聞食て、秀才女、都へ登 すべしと宣旨あり、長者、一人の娘離別を歎き余りあるも、勅りもそむき難く、速に都 に送る。内裏へ召され、叡覧あるに天下の双ひ無きの美人なり。直ちに大内に留め置か る。
 長者弥富栄たり後、久くして長者死去し、宝も消へ失せ、霊泉常の水と成り、四人の 臣、趾を隠し、只旧跡而已残り、茲れに因りて、秀才女、古郷の父の後紀を残され度き 旨を奏し、帝叡聞ありて、
 神は国家の守り、末世の後紀は神社成るべし、長者尊敬せしは大日霊の神社建立有る べし
と、勅りあり。
 
 善記二年癸卯二月二十八日勅使下向、小豆澤村大日堂の神鎮座の霊地へ一社御建立あ り。
 郡中の鎮守に成され、規地村は四方に属す、東は小豆澤村、南は谷内村、西は大里村 、北は長峯村川部村、此の五ケ村なり。営繕及大破修理は国司其沙汰有るべしと社務 部より下さる。霊瑞新たにて信心の輩、諸願満たすと云。
 右又なし、平間田長者の墓所へも一宇の祠を建つ。今に存在せり。
 
 秀才女、命数限り有りて薨じ給ふ時、
 我が亡骸、故郷へ送り給はるべし
と、有りける故、亡骸は小豆澤に送られ埋葬し、後に秀才女高霊神祗と号し奉る。
 継体天皇は、越前の国足羽明神と現れ玉ふ。秀才女御在世の時、銀杏樹を愛し玉ひた る故に、御墓所に銀杏の実植置きければ、一本出で、御墓印と成る。 今に存在して廻り三丈五尺、六尺の乳一つ、五尺の乳一つ、木の中段にさがり有り

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