鹿友会誌を紐とく 第二十三冊(大正11.7) |
△「平壌より 内田守藏」 創設当時のメンバーとして思い出を書いてみる。八歳〜十歳迄の東京は朧げだが、十 六歳から三十歳の秋までの東京は忘れられない。川村竹治・大里武八郎両氏、更に川村竹 治父上等々の事、その頃川村氏大学、大里氏高等学校、郁文舘中学、佐藤良太郎氏・田村 定四郎氏等、内藤虎次郎等毛馬内の人達は飯田町方面、壱岐殿坂の加藤下宿には三、四 人いた。これらが月一回の鹿友会には集まり、大騒ぎで、兎に角待ち遠しかった。今現 在四十を越して朝鮮平壌にいるが、秋田県人は七十名位いるそうだが、会を始めようと の話には四十名位しか連絡をよこさない。更に鹿角人は少ない。他府県人と比べる大変 少ないようである。 △「数字から見た鹿友会の今昔二三」 @明治廿年九月、本会が孤々の声を上げた時は会員が十二名でありました。会誌第一冊 に「其後上京遊学の子弟大に増加し現今にては通常会員四十一名賛成員十八名に達し候 は実に鹿角学運のために可喜の進歩と可申事に候」とあります。それは明治二十四年の ことであります。爾来会員は益々増加し、現在賛成員三十四名、正会員三百二十名の多 きに達しため事は、喜ぶべく誇るべき事だと思ひます。 A会誌第四冊第五冊あたりを見ますと、毎月一回の例会に出席会員数は二十名内外の 数字を示してゐます。それが現在に及んでも尚同じ位の出席数を示してゐるのは残念に 思ひます。当時に於てすら大里武八郎氏は堂々たる大論文を草して会員の出席を促がさ れました。「会員が互に触接するは一面より言へば他の会員を砺石として益々自己の刀 を利にせんとするなり。反面から言へば自ら砺石となりて他の会員を研磨してやるべき 義務あり。自己の利益は或は抛棄するを得べしといへども義務はどこまでも遂行せざる べからず」と言はれたのは至言だと思ひます。序に、出席者の一番少なかったのは第百 六十二例会で出席者一名小田島信一郎氏のみ。次は第百五十六例会で出席者諏訪冨多、 川村十二郎両氏。次は第百六十四例会で、出席者大里武八郎、川村十二郎、小田島信一 郎三氏でした。 B会誌第一冊を見ると未納会費参円六拾銭とありますが、現今では実に弐百円を越へて ゐますが、絶対値に於ては殖ゑてゐます。これは可喜の進歩ではないと思ひます。「会員 も多くなったし、貨幣価値も古とは異なるし」などゝ言はぬことです。 △幹事動向 この年(大正十年)青山幹事長再度宣伝帰郷の為、郷人新入会員増加、四十六名もの新会 員増える。 青山幹事長八月十日出発二十六日帰京。 帰郷記事は詳細を極める。十和田湖には多勢の観光客が来る様になったが、交通機関 はまだまだである。郡内各地各所で在郷会員又は有識者と面談し、奨学金醵金のお願い 並びに講演会を催した。 二十四日諏訪冨多氏の先導にて同氏開墾地視察、諏訪君条件として、一戸毎に三町歩 均一所有の規則、若し将来大地主・小作農の階級戦が起こると予想すれば、諏訪君は時代 を達観した人、先見性のある人である。 鹿角の印象として、段々都会化して行っているが、智識欲や読書を好む傾向、科学思 想の発達は認められるが、暴飲暴食の癖と時間空費は止めさせたいものだ。 由来地方の特長は、大自然を対照として飾らざるにある、素朴勤倹にある。身体健全 にして困苦欠乏に堪ゆるにある。然るに文明は、無遠慮に地方を襲い、地方は段都会化 して、その特長として誇る何物もなくなることは憂うべき現象である。 併し鹿角の特長たる美風良俗は失わぬ様にしたい。 △評議員会 大正十年十二月評議員会にて、婦人会員入会を決議 △亡友録 内田慎吾八十四歳、關圭三三十二歳、大畑茂千代、豊口庄作三十歳、西村惣一郎二十 歳、石井留之助四十六歳、川村直哉三十六歳、豊口甚六五十五歳、和井内貞行六十五歳 △数字から見た鹿友会の今昔二三(別掲) △会員名簿(大正十一年)賛成員三十四名、 正員、東京会員百十一名・郷里会員百二名・地方会員百三名 △編集室 編集しつゝ、 「文明は手から口へ移った」 郷里言論界は、花輪「青年の鹿角」、小坂「鹿角新報」、毛馬内「ほそぬの」、大湯 「奔流」 |