鹿友会誌を紐とく 第十三冊(明治44.7) |
△「第廿七議会に於ける鉄道問題 県会議員 豊口竹五郎」 一、明治三十年頃、盛岡市に於いて好摩 − 大舘間私設鉄道計画あり、依免状下附 二、同三十三年、衆院通過、貴族院審議未了 三、同三十四年、請願書提出 四、同四十三年、全線測量完了 同四十四年、衆院・貴族院通過 (大舘の貨物収入は、杉・鉱山関係等のため、秋田県一である) 青森・弘前・大舘・能代等と比較するに、津軽街道筋の鉄道線路(後の花輪線)を通る方 が近距離にて便利 大舘・好摩間 工費千九万 盛岡・大曲間 〃 千九十四万 △「十和田湖の近況 十和田養魚場 和井内貞行」 一、昨年の遊覧団体 八戸中他 十三校 来遊者概数 学校生徒千余名・十和田神社参詣千五百名・普通遊覧者二千名(内団体五 百名)・外国人二十名 二、外国人の鱒釣 外国人は、横浜・神戸・長崎・函館等より費用・時日を惜しまず来る人増加。将来外国人 は十和田湖の尤も大事な客となる。ホテルの無いのが残念。 三、道路の開修 明治四十五年迄は十和田湖へ馬車・人力車が行ける道路が開修される計画 四、端艇競争場建設計画 目下取調中 五、現在の旅館 五、六軒 六、来賓案内 小坂停車場前十和田湖案内所 七、四十三年度の養魚事業概況 各県への種卵は、六百八十万粒 △秋田県人クラブ創立 毎月十二日神田錦町三河屋へ参集の事 鹿角の発起人は湯瀬禮太郎氏・川村十二郎氏、賛成会員は川村竹治氏 △鹿友会回想記「思出の記 東京 川村五軒(十二郎)」 本郷は東京の書生の本拠地 神田は下タ町、本郷は山の手 壹岐殿の加藤 − 古い下宿屋(壹岐坂旅館) 加藤は、実に多くの鹿角出身書生を養った。 明治二十八年頃、本郷西片町に事実上鹿角共同寄宿舎というものが形づくられ、鹿友 会本部の如くになった。 △鹿友会回想記「初めて夜会を観た記 海軍少尉候生 佐藤慶藏(曙出身)」 ニューヨーク(桑港?) 加州第一 フェアモンドホテル、門番タキシード 日本流英語 エレベーター 上の方に我軍楽隊と、他に一隊の楽人 君が代と米国国歌 妙齢の女性達は、少しも恥ずかしそうな顔をせず、食いたいものは食い、話したいと きには話す。日本の女性を見習った方がいい。 女性の服装はすごい、極彩色あれこれ、首から背中にかけて後ろ腕の半分ぐらいまでむ き出し。 銅像や画に裸体が出てくるが、西洋人は余程裸体が好きと見ゆる。 ベール − 顔に網を張っている。 A君はキスされるのを予防、B君に悪い虫がつかぬ様 腑の落ちぬ △付記 @小笠原啓三令夫人は原敬の姪 A石川六郎(毛馬内) 国民新聞記者徳富蘇峰の秘書 △明治四十四年賛成員二十六名、 地方会員百二十六名・在京会員四十名(学生十二名) |