鹿友会誌(抄)
「第十三冊」
 
△亡友伝
○小泉安五郎小伝   小坂 小笠原勇太郎
 君は、明治六年四月十六日を以て鹿角郡小坂鉱山に生る。幼にして遊学の志あり、十 三歳の時、当時来山中の工学士桑原政氏に伴はれて大坂に登り、同氏に寄寓して泰西学 舘に入学、専ら英語を研修し、十五歳の秋、病の為め一字帰省するの已むべからざるに 至りしも、勃々たる研学の意志は、到底君をして永久山中の人たらしめず、十七歳再び 笈を負ひて東京に遊び、工手学校に入学、建築学を専攻す。業終るの後、日本土木会社 の聘する所となり、先年焼失せる逓信省は、実に君が同社に勤務中、其の築造を督せら れたるものなりしなり。
 二十六年、徴兵適齢に達するや、幸ひにその撰に入り、君をして其職を顧みるの遑な く、輜重兵となりて、仙台に於ける輜重兵第八大隊に入営するの余儀なきに至らしめた り。然れども君の後半生に於ける光輝ある歴史は、却ってこれの間に喚発せるを見るな り。
 
 君の軍隊に入るや、幾何もなく日清戦役に際会し、其従軍の命に接するや、勇躍□舞(鼓舞か) 先づ清国に渡り、次で台湾に航し、其兵種の関係上戦闘員の如き、勇壮なる奏功なかり しも、遺憾なく其の任務を遂行し、戦功により勲八等に叙せられ、戦後再役を志願し、 約十個年の軍務を終り、軍曹の官を以て再び故山に帰臥するの人となれり。
 時恰も鉱山に於ては、事業拡張の計画ありて、直ちに工作課雇員となり、勤務中多年 を経ずして、再び日露の戦役に従軍するの身となり、召されて第八師団馬蔽附となり、 出征後曹長に昇進し、職は戦線に立つの任にあらざるも、其功績敢て人後に落ちず、凱 旋の後、勲七等に昇叙し、青色銅葉賞並に金参百円を下賜せられ、再度鉱山工作課に入 り、建築係に職を執り勤務中、本年一月不治の病魔に犯され、医療、転地諸種の看護百 計其効なく、六月二十六日未だ春秋に富み、将来有為の身を以て終に不帰の客となる。 行年三十有九歳。誠に悼惜に堪へず。
 君、資性豁達恬淡にして、真に模範的軍人気風を備へ、又義務心に富み、能く公共の 事業に尽瘁し、衆の敬慕を受けたり。余儀として戯画を好くし、乗馬は幼より之を嗜好 し、軍隊に入るに及んで、斯道の蘊奥を極め、誠に有数の騎手たりしといふ。

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