十和田湖開発の恩人。 参考(出典):「十和田町の先輩」
− 十和田湖開発の恩人 − 明治三十八年の秋、貞行は湖畔の魚見櫓(うおみやぐら)から灼けつくような視線を沖の小波によせた。 「こんな静かな日に風波が起こるわけがない」。とすると、魚だ、魚の群れだ。何千とも知れない鱒の群が、 銀鱗を躍らせて岸によってくるではないか。 「おーい、カツ子。カパチェッポが帰って来たぞ」 「帰って来た。とうとう帰って来ましたね」 二人は手をとり合って涙にむせんだ。それから夜通しで山を越え、七十三歳の父治郎右衛門を迎えに毛馬内に走った。 次から次と網にかかる鱒の群に、親子はこみ上げる感動をおさえながらじっと見守っいた。 これは、貞行が十和田湖の養魚に志してから二十二年、世人の迫害と嘲笑、言語に絶する貧困と苦闘の末、 鱒の養殖に成功した感激の日の情景である。 和井内貞行は、宇治川の先陣争いで名高い佐々木四郎高綱の長兄太郎定綱の末子綱貞から三十八代目、治郎右衛門貞明 の嫡子として、安政五年二月十五日毛馬内の古町に生まれた。 少年の頃儒者泉沢修斎の門に学び、明治七年学制が発布されるや、十七歳で毛馬内学校の教員手伝いとなった。 二十四歳職を辞し、工部省小坂鉱山寮十和田鉱山詰となり湖畔で生活するようになったが、 これが貞行をはじめ和井内一家を養魚に賭ける運命的な出あいとなった。 それから鯉や岩魚の養殖、魚道の開さく、日光鱒の放流と失敗と辛酸の歳月を重ね、二十七歳の青年貞行は、 びん髪に霜をおく四十八歳にして、はじめてカパチェッポの養殖に成功し、栄光の日を迎えたのである。 貞行は飢饉(ききん)に苦しむ村人の救済、十和田湖の観光学術の開発に尽し、大正十一年五月十五日六十五歳の 生涯を閉じたが、その功績が上聞に達し正七位に叙せられ、献身的な協力者カツ子夫人と共に、和井内神社に祭られている。
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