絵は泉沢修斎と川口月嶺に学ぶ。 参考(出典):「鹿角のあゆみ」
天宝六年〜明治二十年、十和田町の武士の出で、同町古町に生れ、祖父は文化文政時代、 鹿角一の俳人と言われた馬淵里夕(貫右衛門)である。父貞助、兄賢太が早く亡くなった ので、幼くして南渓は家を継いだ。 毛馬内の泉沢修斎に句読を習い、長じて経史、長沼流の兵学、荻野流の砲術を学んだ。 藩主利剛侯が地方視察で毛馬内に寄った時、南渓は泉沢門下生として、兵要録を講じた ほどであった。 絵は泉沢修斎と川口月嶺に学んだ。 参考(出典):「十和田町の先輩」
馬渕乙次郎は俳人里夕の孫に当たる。すなわち父貞助は早く死し、兄賢太もまた夭死(ようし) したので、若くして家を継いだ。天保六年の生れで、南渓と号した。 幼児から泉沢修斎について句読(くとう)をうけ、長じて経史を学び、或は長沼流の兵学を研究し、 また桜井忠太夫に従って萩野流の砲術を勉強し、諸芸に通じたので有名になった。藩主利剛公は、 かつて鹿角郡内の巡回に際し、郷土の文武を閲覧した時、選ばれて公の前において、兵要録を講じ、 あるいは銃砲を射的して褒章をうけた。 また絵画を修斎に学び、さらに月嶺に師事したので技が大いに進んだ。 絵画はおもに蔵の中で描いたものだが、ある夜家人が部屋をあけてビックリ驚天した。 それは幽霊の絵が掲げられていたからである。これがもと仁叟寺に宝蔵されて、お盆に本堂に かかげられた地獄、極楽の掛物の一部ではないかといわれている。
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