GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

本田鋭之助

 仁術の医師。毛馬内。

参考(出典):「十和田町の先輩」
 
− 仁術の医師 −
 本田鋭之助は延司の長男で、明治十一年七月十八日古町に生まれた。 毛馬内小学校では、後に陸軍中将となった石川漣平と同級生で、常に首席を争った間柄である。
 明治三十四年もの岡中学校に入学したが、在学中は米内光政と机を並べて席を競った。米内は後に海軍大将となり、 さらに総理大臣となった。二人は共に苦学生であった関係で、あい助け合って親しかった。
 
 明治三十七年、仙台第二高等学校に入学し、その三部(医科)を卒業し、直ちに京都帝国大学に入学し、 明治四十一年三月卒業した。本郡で京大出身の医学士は初めてである。
 鋭之助は卒業後毛馬内に帰り、自宅で開業した。資性温厚で、医術に当って冷静な判断の下に、 良心的な医療に努めたので、患者の信頼も厚く、遠近から診察を乞う者が多かった。 また七滝小学校や毛馬内小学校の学校医をつとめ、児童の保健衛生の向上につとめた。
 
 鋭之助は趣味として囲碁を好み、時には絵筆を手にすることもあった。また書画の蒐集につとめ、 その鑑定に興味をもっていた。
 鋭之助は昭和二十年三月二十八日、病のため没し誓願寺に葬った。
 
 嗣子正樹は東京医大を出て、父の医業を継いでいる。正樹の三男正次は、目下日本医大に在学し、父祖三代 にわたる医家である。

[バック]  [前画面へ戻る]