GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

坂田祐(たすく)

 関東学院大学学長などを歴任。

参考(出典):「鹿角市広報」ほか
 
 坂田祐の先祖は会津藩士だが、奥羽戦争に敗れてから両親は大湯に移った。 祐は明治十一年二月十二日中村富蔵の次男として生まれた。彼は大湯小学校四年から毛馬内校の高等科に進んだ。 初めての修業式で生徒代表となったが、ハカマがなかった。家が貧しいので中途で退学して不老倉鉱山で働いた。 夕食の米がないため、母が一本の帯を質入れしたのを見て、一大決心をして十八歳の時涙をのんで家出した。 歩いて会津の叔父をたずね、一円五十銭をもらって上京した。東京には知人がいないので、毛馬内校で 同級生の樋口定三をたずね、仕事を探したが見つからなかった。
 
 明治三十一年徴兵検査の時、陸軍教導団の募集があったので入団。成績がよかったので選抜されて陸軍騎兵学校に進み、 恩賜の銀時計で卒業した。三十五年陸軍士官学校の馬術教官、ついで日露戦役に従軍した。
 祐は旧姓中村氏で、三十九年足尾町の坂田チヱと結婚して坂田姓を名乗った。
 
 彼は正規の学校教育をうけたい宿志捨てがたく、明治四十年数え年三十歳で東京学院の編入試験をうけ、 第四年にはいり、さらに第一高等学校に入学した。その後内村鑑三の門下となり、四十五年には宿望の東大文科に入学し、 哲学と宗教科を専攻した。卒業したのは三十四歳の晩学であった。それから母校に勤め、大正八年横浜に中学関東学院を 創設して学院長になった。その後に高等部が設けられた。
 
 昭和十五年妻チヱ死亡のため、翌年佐々木トシと再婚した。昭和二十四年関東学院大学長に任ぜられた。 ついで神奈川県文化章や藍綬章及び勲三等を授けられた。さらに米国のレットランド大学からドクトル・オブヒーメンレタースの 学位(人文学博士)を贈られた。
 また著書には、「恩寵の生涯」なる名著がある。昭和四十四年十二月十六日九十歳十ケ月で、横浜市庚台の自宅で 老衰のため天寿を全うした。

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